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連載「脚立の上にも三年」
〜等身大の新聞カメラマン物語〜
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目次
プロローグ
第1話 目白御殿前の大脚立
第2話 裁判所の場所取り合戦
第3話 拘置所前のカラス婆さん(上・中・下)
第4話 昭和の終わりは脚立の上から〜天国の半蔵、地獄の東宮
第5話 昭和の終わりは脚立の上から〜下町と高級住宅街の変遷を追体験
第6話 昭和の終わりは脚立の上から〜上からの撮影は不謹慎?〜
第7話 昭和の終わりは脚立の上から〜番外編〜
第8話 映画「鷲は舞い降りた」じゃないけど・・・
第9話 やっちゃ場の風景〜パチカメ〜
第10話 やっちゃ場の風景〜13年目の真実〜
第11話 気分はとっても「スパイ大作戦」!?
第12話 大山鳴動して、空撮一発
第13話 国境物語その1
第14話 国境物語その2 北方領土は海外?!
第15話 国境物語その3 凍らないミネラルウォーター
第16話 国境物語その4 どうしてアウトバーンでスピード違反なの
第17話 国境物語その5 恐怖のエレベータ
第18話 たかが透かし、されど透かし
第19話 国境物語その6 白い粉の正体は・・・・・
第20話 脚立以前の話 その1 フィルムの入れ方が・・・・・・
第21話 脚立以前の話 その2 不法侵入!?
第22話 脚立以前の話 その3 28ミリマンって誰
第23話 国境物語その6 エジプトの時そば
第24話 戦場のもう一つの風景その1〜ポル・ポト派兵士と味の素
第25話 戦場のもう一つの風景その2〜戦場のメリークリスマス(前半)
第26話 戦場のもう一つの風景その2〜戦場のメリークリスマス(後半)
第27話 その脚立 幾ら?
第28話 弁当も凍る北国の張り番
第29話 写真電送機にもてあそばれて…(前半)
第30話 写真電送機にもてあそばれて…(後半)
第31話 手作りのプレスカードで…
第32話 脚立の上の酔景は、プロテイン味
第33話 憎し、ヘッジファンド〜アジア通貨危機に巻き込まれて〜
第34話 番外編 行政をメルしてくれ!?
第35話 非常線を突破せよ その1
第36話 非常線を突破せよ その2
ハイジャックの一報が入ったのは、ちょうど昼食時に差し掛かった時だった。1995年6月21日、羽田発札幌行き全日空857便が山形上空でハイジャックされたとして、函館空港に降り立ったのだ。
365人の乗員・乗客を人質にして「サリンが入っている」とペットボトルを振りかざしながら脅していた。オウム真理教の信者を名乗っていた。
「これは大事件だ」と北海道支社報道部は色めきたった。NHKが空港に備え付けのカメラで857便を写している。情報はどうなっているのか。取材に出かける準備に追われた。
ある部員が「(札幌市内の)丘珠空港から函館入りよう」と言った。馬鹿な。「ハイジャックされると、空港は閉鎖される。空路で函館入りは無理だ」と私。
函館から新千歳空港に移動するという情報も入った。しばらく動くに動けない状態になった。情報を見極めないといけないからだ。
突然、NHKは「今、入った情報によるとハイジャック犯が確保されたとのことです」とアナウンスした。一同、「おお」と歓声を上げた。事件は収束かと思われたが、NHKは動かない航空機をずーっと映し出している。おかしい。何か、間違った情報が伝えられていると思った。デスクに「その後、何のアナウンスもない。まだ、事件は解決していないのではないか」と進言すると、東京の社会部に連絡を入れた。答えは未解決。
このまま、函館空港が主戦場になるとにらみ、時間はかかってもいいから会社のワゴン車で移動することにした。自動現像機、薬品、電送機など持ち運ばなければならない。電車で移動するには、手に余る。
夕方、5時近くに函館空港にたどり着いた。歌手の加藤登紀子さんとそのスタッフも搭乗していた。
同僚カメラマンのH氏とS女がすでに取材を行っていた。彼らは対岸の青森・大間に別取材をしており、漁船をチャーターして来たのだ。機転のよく回る相棒なのだ。
大型ストロボのミニカムなどで操縦室に立て篭もる犯人の姿を撮影しようとした。大光量のストロボで浮かび上がる。何発か撮影したところで、警察から「機内から連絡があり、犯人が興奮している。ストロボの使用を控えて欲しい」と申し入れがあった。仕方が無い。乗客・乗員の命には代えられない。
そうしているうちに、東京本社から同僚が応援に駆けつけてくれた。
そして迎えた翌日の早朝。日の出とともに、特殊部隊が機内に突入するという情報が入った。
デスクはそれに備えて、全員に警戒線を突破して、機体に近づけと命令。「えええ。そんな無理な」と思ったが、各人、突破しやすい場所を探し始めた。ある者は、反対側のフェンス脇の草むらに隠れた。ある者は別のフェンスに張り付いた。そして私は、正面突破を狙い、警察がうじゃうじゃいるゲートの前で待機した。
北国の朝は早い。午前3時42分。当たりは薄明るくなっていた。そこに素早い動きの黒ずくめの人影が機体へむけて動き始めた。この時には警察からの申し入れで、テレビ中継では機体周辺を映さないことになっていた。
我々の突入も今だ、と思ったが、私の目の前では大きく警察に制止させられた。うー、無念。他のみんな、がんばってくれという気持ちだったが、結局、機体へ近づけたカメラマンは皆無だった。
某週刊誌で有名な不肖M氏は顔に無数の引っかき傷があった。生々しい傷跡で血がにじんでいる。どうしたのかと聞くと、「突入に失敗して、有刺鉄線に引っかかってしまった」とのことだ
結局、使われた写真は、梯子をかけて、次から次に突入していく特殊部隊の姿を捉えた様子の一枚。一面を大きく飾った。
ちなみに事件後、警察は初めて特殊部隊の存在を認めたのだった。今のSATの前身でもある。
事件が起こると、現場の写真撮影に苦心する。警察により非常線が張られ、現場に近づけなくなり、中の様子をうかがいしれない。しかし、だからといって遠巻きに写真を撮影しても迫力が無い。
そこで、いかに現場に近づくかを考えるのはどこのプレスも同じ。というより写真の特ダネに精を出すといった方が正しい。
都会で事件が起こった場合には、近くに俯瞰できる高い建物はないかと探し出す。ずうずうしく部屋に上げてもらい、ベランダから撮影したこともあった。
札幌の住宅街で火事が起きたときは、屋根伝いに現場が良く見えるところまで移動したこともある。その時は住人から大目玉を食らった。
警察と消防では少し対応は違った。警察は非常線を張って、現場保存のために捜査関係者以外は中には入れてくれない。
しかし、消防はテロで学習院大学が放火された場合ですら、「あ、カメラマンさんですか。ここから入れますよ」と言って、1.5メートルほどの高さの塀をよじ登る手助けさえしてくれた。もっとも今はそんなに優しくないと思うのだが。
世間を震撼させた連続幼女誘拐・殺人事件が起きた時の話だ。いわゆる宮崎事件だ。遺体が発見された現場が埼玉県狭山市郊外の公園・公衆トイレ脇だった。現場ははるか遠くで写真にも写らない。これは困ったと思うと、Y新聞が非常線突破を試みている。こちらも、「うぬ、負けてはいられぬ」と思い、非常線のない丘を越えて現場近くを目指すことにした。現場周辺を警備する警察官に見つからないように、そろりそろりと、まるで、戦争映画で斥候部隊が敵陣中まで行くような感じだ。見つかれば終わり、というより大目玉。フィルム没収も免れない、と思いながら現場を目指す。
突然、視界が広がった。身を隠す場所がない。しかし、目標の公衆トイレは目の前に見えた。その距離、約、50メートル。あと一息だ、と思った瞬間、Y新聞が堂々と歩いているではないか。「あ、あの馬鹿。見つかるぞ」と思った瞬間、案の定、警察官に質問され出した。いかん。こちらの身も売られるかもしれないとドキドキしながら、草むらから撮影しながらも、様子を伺った。
すると、ああ、何と現場を荒らしたため、石膏で足型が取られ始めた。同業他社として可愛そうにと一瞬思ったが、「アホな奴だ」と思いながら、逃げるようにして現場を立ち去った。
そのときに撮った写真は、遠すぎて、使い物にならず、ヘリコプターから空撮した写真が紙面に載った。
こちらも危険を冒しながらも、わかっているけど、こういった「突撃」は辞められないのだ。こんなことして、なんでこんなことまでしてという疑問もよく起きた。「本当に報じる価値なんかあるのかな」と思えることもあった。
Y紙は、ディスコの天井に釣り下がっている照明器具が落下して多数の死傷者が出たときに、何と、隣のビルの窓から飛び移り、中の様子の撮影に成功したのだった。
こちらが所属していた新聞社は、潜水艦「なだしお」と第一富士丸が衝突して、第一富士丸が沈没した時には、引揚げられる船の中に作業員のふりをして忍び込み、撮影したりもしている。
こうした特ダネ合戦は事件ごとに起きるのだから、じっと手をこまねいて現場を見ているわけにはいかなかったのも、非常線突破を試みる理由でもあった。
大事件になればなるほど、報道カメラマンは非常線突破に力が入るのだった。
(続く)
まったく写真の話からそれるが、先日、他社の若手記者と話していたら、自分たちが入社した当時の言葉が通じないことがわかった。もちろん、隠語のような、その会社や組織でしか通じない言葉回しや単語もある。それを差し引いても、たかだか20年そこそこで、機械などの進歩によって変わる伝達方法など隔世の感がある。
そもそも携帯電話なるものはなかった。私は1986年の入社。たかだか21年前の話だ。電話でも学生で持っている人は少数派。電話の権利を買うために10万ほどかかった時代でもある。私は、入社の一次試験通過、合格を電報でもらったのだ。
話のずれついでに、入社して一年間は寮にいたので、個人で電話に加入する必要はなかった。翌年の1987年に水戸支局に赴任した時に初めて個人の電話を持った。プッシュホン回線にするか、ダイヤル回線にするかで悩んだものだ。それでも社会人になっていたにもかかわらず、「一人前の大人」になった気がした。
話をもどすが、写真部にはファックスはなかったので、この水戸支局に赴任して初めてファックスに接した。
言葉としてのファックスは知っていた。見たこともある。しかし、扱い方は知らなかった。
支局に赴任した時に、先輩記者だったか、デスクだったか忘れたが、こう言われた一言は今でも、鮮明に覚えている。
「野口君、行政をメルしてくれ」と。
へっ?何のこと?と私は乏しい、自分の中に蓄えている語彙をふる検索してみた。しかし、私の導いた答えは、行政出版に手紙を出しておくことしか思いつかなかったのだ。
そこで、行政の住所を恐る恐る聞くと、「馬鹿か」としかられた。「行政も知らないのか」と呆れられた。
行政は、朝日新聞社内で使う用語のひとつで、連絡文を意味する。移動行政、出稿予定行政など。移動行政とは、出張などで移動した(する)ことを連絡することで、出稿行政は、本日出稿する予定原稿を連絡することだ。
さて、そこまでは分かったとして、メルとは何ぞやという疑問が残った。
今のメルは携帯電話やPCによる電子メールのことを略した言葉として使われるが、当時は電子メールなんかはまだ、この世に存在していなかった。
ぼやぼやしていたら、「早くメルしろ」という声。仕方なしに「メルって何ですか?」と聞き返した。
「メルはメル。そこのラックにあるだろう。メルも知らないのか」とまた、怒られてしまった。
ラックを見ると、ファックスがある。ひょっとしたら、このことかも、と思いながら「ファックスのことでしょうか?」と聞いた。
「ファックスじゃない。メルだ。メルファスのメルだ」とまたまた怒られてしまったのだ。
ははーん。新聞社ではファックスのことをメルというのかと覚え知ったが、どうしてメルなのかは疑問に残った。
その答えはすぐに氷解した。先輩記者がもっともらしく、こう説明してくれた。
「三菱の製品で、ファックスのことだ。わが社ではファックスと呼ばず、メルファス、メルと呼ぶ。覚えておけ」。
それ以来、私もファックスのことをメル、メル、と読んでいたが、流石に今では使っていない。
でも、いつからメルと言わなくなったのだろうか?まったく記憶がないのだ。
当然今では、メルファスと慣れ親しんだ世代の先輩でも同輩でもファックスと呼んでいることだけは明らだ。
第33話 憎し、ヘッジファンド〜アジア通貨危機に巻き込まれて〜
今でこそヘッジファンドという言葉が新聞をにぎわせているが、そのヘッジファンドが巻き起こしたアジア通貨危機で痛い目にあったことがある。
ヘッジファンドとは、実態のつかめない投資グループが金融派生商品などに投資し利益を配分しあっているものだ。いずれにしても莫大な金を動かしており、主要8カ国財相が「監視強化」を会議などで提唱している。
1997年7月.カンボジアは一時の平和を享受しているかのように見えたが、フン・セン派とラナリット派が主導権を巡り、両派をそれぞれ支持する軍が戦火を交わらせたのだ。
私は急に現地に特派されるのだが、突然だったので現金100万円を渡されて成田に向かった。
カンボジアはリエルという通貨があるが、タイの経済圏に組み入れられようとしており、ドルよりもタイ・バーツを現地の人は欲しがった。
タイに着きアジア総局に出向き、総局の現地アシスタントに日本円を全部、タイバーツに交換してもらうように頼んだ。
カンボジアは在留邦人の脱出も始まっており、取材には一刻の猶予もなかった。バーツに交換してもらい、カンボジアへと飛んだ。
首都プノンペンは略奪行為な沈静化していたが、戦火に巻き込まれた大勢の人がいた。タイとカンボジア国境で、車でタイ側へ避難する邦人などの取材・撮影、病院の取材、家を焼かれた住民の取材のほか、地方都市の状況などを撮影した。
10日ほどの取材を終えて、モチ君という助手・通訳に約束の手当てをタイ・バーツで渡して空港の出国手続きを終えて、ラウンジで搭乗を待っていた。米ドルよりもバーツをというたっての希望だったので、おおよそのこれまでの交換比率で計算した。
するとどこから入ってきたのか、モチ君が慌てた様子で、「交換比率がだいぶ変わった」という話し出した。しかも倍近くを要求した。「そんな馬鹿な」と思いながら、搭乗が始まっていたので、「まあ、仕方がないか」とその時は、それほど気にもせず、追加払いをした。
バンコクに到着して、朝日新聞アジア総局に顔を出し、ちょっとした買出しをしようと街をふらついていると、バンコク在住のSさん(彼の父は元日本軍医、母はタイ人だった)とばったり出くわした。近況など立ち話していると、「いやあ、今、タイの通過が下落して大変なことになっている」と話し出した。
「え、どういうことですか?」と聞くと、「タイバーツの価値が半減したんだよ。通過の切り下げ」という。
当時はよく理解できなかったが、空港でのモチ君の話は嘘ではなかったことは裏づけされたことだけはわかった。
つまり、簡単に説明するとタイは当時、固定相場だったが、7月2日に変動相場に移行した。ヘッジファンドは、タイバーツが実質よりも高く評価されていると判断して、大量にドルを買い、バーツを売って巨万の富を得たのである。
このことがアジア通貨危機を招くことになったのだ。
さあ、大変だ。日本円をすべてバーツに交換しており、残金も日本出国前の交換比率(為替レートで)70万円以上残っている。といっても、この時点で約40万円といったところだろうが…。
帰国して精算すると約30万円余計に、会計に払い戻さなければならなくなっていた。会計に交渉すると「ははは、野口さん。それは気の毒ですが、逆の場合にあきらめてくれますか?できないでしょう」とにべもない。
なくなく余計に払うことになったが、どうして社命で危ない取材をして、おまけに金を取られなければならないのか。この理不尽さに怒りが沸いたが、後の祭り。
おそるべしとヘッジファンドを呪うしかなかった。
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第32話 脚立の上の酔景は、プロテイン味
新聞社に勤めていると、いつなんどき、呼び出されるか分からない。休みで旅行中であろうが、家でのんびりしていようがおかまいない。ましてや結婚式なんか関係ない。
というわけで、呼び出しはT新聞社とS新聞のカメラマン同士の結婚式に出席していたときに起こった。式といっても無事盛大に終わり、二次会の真最中というのが正しい。
前兆はあった。他社の仲間のポケベル(時代はまだ、携帯電話の時代ではない)がまずなった。彼は「たいした用事じゃないんだけど、ちょっと社に上がらなくてはいけない」と言って、場を去っていった。さらに数分後、別の他社のカメラマンのポケベルが鳴った。彼も「たいした用事じゃないんだけど」と言って去っていった。さらに、もう一人、ポケベルが鳴って去っていった。
私は飲みすぎて、気持ちよくなりすぎていた。それでも何か、おかしいと感じたが、当の結婚式のお二人が近づいてきて、「なんか、みんな出ていくねえ。でも、たいしたことじゃあないみたいだよ」という。私は「そうか」と思い込み、さらに祝いの杯を重ねていった。
するとまた、別のカメラマンも去っており、気がつくと出席していた同期入社のカメラマンはみんないなくなっていた。
何か図られた気がした。T新聞のカメラマンに「何かあったのか?」と聞くと、ニヤニヤしながら「野口、本当に何もしらないの?連絡ないの?」と答えた。
「隠さずに言えよ」というと、「金丸(自民党元副総裁)が逮捕され、ガサ入れ(強制捜査)だよ」と正直に話してくれた。
「うわー、大変だ」と公衆電話に直行し、写真部にダイヤルした。するとのんきな声で先輩が「そういう噂もあるけど」と答えるので、「今、結婚式だけど、他社のカメラマンが全員、席をはずしたんですけど」と説明した。
先輩も慌てて、「ちょっと待って。司法クラブに聞くから」と言ってから電話を切った。
私も式を抜け出し、金丸邸に直行したら、先ほどまで同席していた他社のカメラマンがすでにいた。
「野口、遅いよ」とみんな笑っている。
私の足元が覚束ない。現場にフィルム受け渡しのオートバイの兄ちゃんに「悪い。これでポカリスエット買ってきてよ」と小銭を渡した。
私は脚立の上に座りながら、現場が動くのを待っていた。すでに地検特捜部が家宅捜査に乗り出しており、いくつかの物品を運び出していたようだ。
しばらくするとバイクのお兄ちゃんが戻ってきて、「すみません。何、無かったので、似たような飲み物で」とオレンジ色の缶を渡された。「ありがとう」と礼をいって見ると、なんとプロテイン飲料。
ぐびぐび酔い覚ましに飲むと、何か気持ちが悪くなってきた。脚立の上に立ち上がるとフラフラする。
それを見ていた警備の警察官が「あなた、危なっかしいなあ。こんな所で脚立から落ちて怪我をすると、この方がニュースになるよ」とあきれた顔で話しかけてきた。
「いやあ、友達の結婚式に出席して、飲みすぎて・・・・」となぜか弁解口調になっている。
ついに気持ち悪さはピークに達し、家影で(といっても高級住宅街)でゲロげろとやってしまった。
とその時、動きがあった。ガサ入れを終えて、押収した書類が詰め込まれたダンボール箱を手に地検捜査員らが出てき始めた。
脚立に上がる。最初はさすがにフラフラしたが、気合を入れなおして撮影に集中した。
無事に脚立から落ちることもなく、撮影し終わったフィルムを待機していたオートバイの兄ちゃんに渡して、ほっと一息をついた。
しばらくすると会社からポケベルが鳴った。連絡するとデスクが怒っている。
「今、時事通信配信の写真で、金庫を運び出している光景があるんだけど、野口君、それ、撮っていないの」と責めてくる。
「いやあ、まって下さい。私は自分の仕事をきちんとしましたよ。そもそも、連絡が遅くて、現場に来たときは最後。何時撮影になっているんですか?」と問い返すと、「とにかく社に上がってきて」と電話が切れた。
社に上がって時事の写真を見ると、確かに金庫の運び出しがあった。やられたあ、と思ったが、どうも、私が現場に駆けつける前の撮影のようだった。
助かったとはいえ、後味の悪い結膜に終わった。
それにしても、他社に出し抜かれた格好になった。いくら仲の良いカメラマンといえ、現場は非情なのだ。とほほ。
東欧革命、湾岸戦争と取材中にいつもあれば便利だと思えるものがあった。プレスカードだ。なぜか日本の朝日を含めて日本の新聞社にはない。あるといえば、英語の写真付き社員証明書。どこにもプレスと書かれていない。
「以下の者は朝日新聞社員であることを証明する」という意味のcertificateという文字が踊っているだけだ。日本新聞協会発行の英文カードも然り。どこにもPressという文字はない。
Pressという文字は分かりやすい。一目で「ああ、プレス関係者だ」と分かる。唯一、東京写真記者協会Tokyo Press Photographers Associationや北海道写真記者協会Hokkaido Press Photographers Association 発行のカードにPressという文字がうかがえるだけだ。
Certificateと書かれた三つ折の証明書をことあるたびに見せるのだが、どうも先方には要領がえられないようだった。
そこで次の海外出張の時にはプレスカードを自分で作ろうと思い立った。
国際貢献取材の担当になった時、出発の直前にプレスカードを部内で作り始めた。英語のアルファベットレタリングシートを買ってきて、適当な厚紙にPressCardと貼っていった。名前は会社名、有効期限などのところにも活字の大きさの違うシートを貼った。
たまたま作業を見ていた先輩が、「おお、そうやなあ。何でプレスカードがあらへんのや」とやはり海外取材での不便を感じていたらしく、大阪弁で話しかけてきた。
「そうなんですよ。ですから今、こうして手作りでやっているんですよ」といい、オーソライズされるべきサインの部分に先輩に書き込んでもらった。
出来上がったプレスカードは10センチ×5センチというちょっと大きめになった。ま、しかたがないか。と思っていたら「な、野口。それ、いかにも嘘っぽいで」と言われてしまった。かといって直す時間もあまりなかったので、薄いプラスチックでカバー(パウチ)して海外に持っていった。
最初の入国はフィリピン。当時は社会主義国など一部をのぞいて、いちいち取材用ビザを取得する必要はなかった。入国審査官に手作りプレスカードを見せると、「おお、プレスか。どこの新聞社だ」となぜかニコニコ顔。税関審査でも、いろいろ機材など面倒なものもあったが、プレスカードを見せると、「OK OK」といって何も検査することなく通してくれた。
ちょっと嘘っぽい手作りカードながら威力は絶大。別の国へ移動したり、取材ビザが必要なバングラデッシュ入国用の申請にも威力を発揮した。
帰国して先の先輩に話をすると「そうか。なら次にもっといいものを作ろう」と先輩は即座に反応してくれた。
ある日、先輩はどこから仕入れてきたかしらないけど、PressCardの原型を持ってきた。原型というより、名前と会社名などを書き込めばいいだけのカードだ。
「どこで、そんなの売っているんですか?」と聞くと、詳しくは教えてくれず、「学生証もあるで」という。
何か、偽造をしているようで後ろめたい気持ちなのだが、嘘をついているわけではないので、それに写真を貼ってプレスカードを作った。
いやあ、本物そっくりで感じがいい。(くれぐれも、偽造ではない。会社にないものを自分たちで作っただけ)。
でも、このプレスカードを見せるとき、いつもドキドキしていたのだった。
ある時、別の場所で興味を抱いた手荷物の審査官は、写真電送機とはどういうものだ、と尋ねてきた。デモをして納得できなければ、機材預けをしろ、と付け加えてきた。
旧西ドイツ・ベルリンのテーゲル空港。出発時刻の30分ほど前の慌しい時だった。電送機は精密機器。荷物預けなどしたら、壊れてしまうおそれが大きい。カメラ機材とともに、機内への持込でなければ駄目だ。
私は仕方なく、写真電送機を簡易バッグから取り出し、電源が必要とコンセントにプラグを差し込んでもらうようにお願いした。プラグ脇にアース用のコードが延びている。何か嫌な予感がしたが、審査官にまかせたその瞬間、ボーンという音とともに、空港内の電源がすべて落ちてしまったのだ。ありえない話だが、実際におきてしまった。
考えられるのは、アースとともにコンセントに差し込んでしまったことだ。
慌しく走り回る係員。ドイツ語の大声が空港内に飛び交う。私の周りには多数の警察官を含めた様々な係官がやってきた。
「もう、これは壊れた。荷物預けの手続きを」と命令してくる。
私は必死になって、「スイッチが入ってない。だから機械は壊れていない。もし、こわれていれば、コンセントの挿し方が悪かった、あなたの責任だ」と一歩もひかずに抗議した。
それで、係官は「電源も落ちた。荷物預けの手続きを」と命令する。
「まってくれ。荷物預けでは壊れる可能性がある。電源が回復するまで待て」とのやり取りが続いた。
その間の空港は、X線検査などできず、すべて手検査になった。発券などもできないので、空港中、大騒ぎになっている。荷物預けカウンター前は長蛇の列ができていた。客は私の方を恨めしそうな顔をして見つめたりもした。
どのくらい時間が経ったのだろうか。時計を見るととうに出発時刻は過ぎていた。
それからしばらくすると、電気が復旧した。
「デモをするからもう一度、コンセントにプラグを差し込んでくれ」と頼むと、「いや、こわれているから駄目だ」という。
「それでは、私がプラグを差し込む。また、同じように電源がおちたら、私が責任を持つから」というと、相手はしぶしぶ認めたが、私がコンセントに差し込む時の係りの人の顔は恐れに満ちていた。
電送機はスイッチを入れると立ち上がり、一通り、デモをするとようやく審査官は納得して機内への持込を許可してくれた。
慌しく機内に入り込むと、機長からのアナウンスで、「先ほど空港で電気系統のトラブルがあり搭乗手続きが滞り、出発が遅れました」とあった。隣に座っていた男性は一言、「原因はあなたか?」とぼそっと尋ねてくる一幕もあったが、私は長々と理由を説明するのにつかれていたので、「私が原因ではないが、私の時に電源が落ちた」とだけ答えた。
また、ある時は、ウランを手荷物で持ち運ぶ事件が多発していたので、電送機はよく疑いをかけられ、不思議な装置にかけられたりもした。不思議とドイツで問題が起きたが、エジプトではガンとして国内への持込を拒否されて、空港預かりになったこともあった。
私たちカメラマンは写真電送機がなければ、ただの観光客のようになってしまう。報道の取材で海外まできているのだから、写真を新聞社に送る手段を断たれれば、そう陰口をたたかれてもいたし方がない。
電送機はその後、進化をとげてニコンからNT3000という新鋭機ができると携帯性、操作性も格段と向上したが、いずれにしてもカラー写真を一枚おくるのに30分近くかかることには変わりがなかった。
電送の時にはいつも、機器の近くにいて、一枚送り終わると、電送部という会社の組織に連絡をして受信常態を確かめるのが常だ。電話回線の状況によって、ノイズが入ってしまう可能性もあり、ノイズが発生するたびに、送り直すことを繰り返した。
5枚ほどおくるだけでも大仕事。場所を離れなれないし、食事もとれない。しかし、その間にやるべきことはない。もてあましてタバコを吸うしかなく、いつも電送が終わると灰皿は吸殻で満杯状態だった。健康にも精神的にも悪い写真電送。
今、ふりかえると仕事とはいえ、いつも電送機にもてあそばれていた感が強く残っている。
こうして送られた写真?。それはもう、80パーセント以上がボツですよ、ボツ。
デジタルカメラが普通に使用される以前、カメラマンは撮影したフィルムを自分で現像し、その中から幾つかコマを選んで、電送機にそのコマをセットして電話回線で写真をアナログで送らなければならなかった。
詳しい電送のシステムは分からないが、私が入社したころの写真電送といえば、家内制手工業のような作業が必要だった。
当然、使うフィルムは白黒。撮影後、高温の液でフィルムを現像して、定着・水洗・乾燥させていた。どれを送るかそのネガの中からコマを選び、引き伸ばし機にかけて、キャビネ版に焼き伸ばす。同じようにプリントを現像、定着、水洗、乾燥させるのだ。
フィルムを早く乾かすために、水洗後、無水アルコールにつけていた、というような時代でもある。
電送機はドラム式と呼ばれ、直径5センチほどの円柱形ドラムにキャビネサイズのプリントを巻きつけるのである。ドラムは回転する仕組みになっていて、光学受光部が走査しながら写真を読み取るという仕組みだ。
ホワイトバランスをとるために、写真に余白をつけておくのが常だった。ドラムを回転させ受光部を白の部分に合わせるとピー音がする。写真を貼り付けるための部分が暗部になっているため、ピーッ、ピーッという音が鳴る。受光部をスライドさせるとピヒャーッと違う音がするので、受け取り手(電送部、画像部)は「お、写真が送られてくるな」と察知して、返信音を送るのだ。その音にあわせて送り手は写真電送をスタートさせる。写真一枚の電送時間は、おおよそ5分だった。
出張といえば大げさになり、カメラ機材のほかに、現像セット、電送機、引き伸ばし機、暗幕など多数かつぐ。出張は力仕事でもあった。
私が入社する三年前には、ニコンからネガ電送機なるものができていた。ネガ電送機とは、文字通りフィルムをダイレクトに電送機にかけて写真を送る機器で、プリント作業は不要となる。つまりフィルム現像だけで済むため、出張で持ち運ぶ荷物はうんと少なくなるのだ。
(私の入社したてのころは、ドラム式とネガ電送機を併用して使っていた。支局・通信局からの電送はドラム式)
簡易になり、運ぶ荷物はうんと少なくなったといえ、見る人から見れば大荷物。電送機だってずしりと重い。
あまりの重さにズルをして、キャリーでがたごと引っ張っていったら、見事に内部のミラー部分がはずれ、壊れてしまったことがある。
「壊れてしまって…」と報告すると、「壊したのだろう」と上司からしかられた。この機械、聞くところによると1000万円近くするそうだ。始末書は免れた。
若手の頃は、出張に出る機会も少なかったが、いざという時に備えて電送機は見て学んでおこうと思っていた。
1989年春。先輩カメラマンが中国で民主化を求める動きがあったため、出張にでかけることになった。ハッセルブラット社のカラー・ネガ電送機を持っていくという。カラー電送機か、と眺めていると、モニター部分はなんと白黒。色の三原色、シアン、マゼンタ、イエローと三回に分けて送られるため、時間は一枚につき40分近くかかっていた。
ずいぶんと時間がかかるものだ。それでもカラー写真が送れるとあって、使い勝手は悪かったようにみえるが、重宝がられていた。
いよいよ初の海外出張となった1989年の東欧革命。電送機はハッセルからAP通信社が開発したAPリファックスというネガカラー電送機を持っていくことになった。
ニコンからはNT2000というスーツケース大ほどある電送機が出始めていたが、APはアタッシュケースサイズ。しかも、キーボード付で、キャプションも打ち込める。といっても日本語変換のソフトがないため、ローマ字書き。明日というところをAshitaのように書くだけなのだが。それでも機動性は随分と良くなったものだ。
ただ、気をつけなくてはならないのは、220Vと110Vの変換を間違えるとえらいことになる。日本国内で220Vにして使っても問題ないのだが、国内用110Vのまま海外で使うと、電圧が違うためにボンという音とともに電送機はただの箱になってしまう。
一度、湾岸戦争時期のエジプトで間違い、とんでもないことになった。外部の取り外しが簡単なヒューズとともに、内部の内蔵ヒューズまですっとんでしまった。この時は、さすがにAPカイロ支局に泣きのお願いにいった。運がよかったのは、たまたまロンドンから技術者が来ており2日ほどで直ったのが、その間、写真の送稿手段がなかった。要人の暗殺などがあり、APの支局に持っていっても、一向に送ってくれる気配すらない。あげくのはてに「朝日はAPに加盟しているだろう。じゃあ、俺の写真が送られるから問題ない」と言われる始末。そういう問題ではない、と言い返し、一枚を送ってもらうために2時間ほどかかったこともあった。
電送機は一般の人には馴染みがないため、空港の税関審査でもよく引っかかった。ドイツでは、「幾らするのだ、この機械は」と問われ、調子に乗って「1000万円」といったら「国際カルネは持っているか」(日本に持ち帰るという証明書のようなもの。そのため、持込の税金が免除される)と聞き返すので、「持っていない」と答えた。すると別室に連れていかれて、「多額な税金を払うことになる。えー、締めて…」と言いかけたところで、「あいやあ、間違っていた。これはほんの10万円で、タイプライターのようなものでございます。ほら、中にはキーボードが。これを打って記事を送るのです。私は記者でございます」と話すと、相手は怪訝そうな顔をしながらも放免してくれた。ほー、助かった。
しかし、電送機には審査官は興味深深で、いろんなトラブルを起こすことになるのだが、その話は次回に回す。
北海道の勤務時代。北海道拓殖銀行が破綻し、商法上の特別背任罪で頭取ら3人が1999年3月に逮捕された。
弥生三月といえども、北国は春はまだ遠い。逮捕された日は日中も氷点下。時折、激しく雪も降っていた。
張り込みの場合、通常、数時間で交代するが、北海道は人手が足りず、日の昇る前から逮捕されるまでじーっと寒さに耐えなければならなかった。配置場所は頭取自宅前、北海道警中央警察署前、札幌地検前の三ヶ所。カメラマンは自分を含めて3人しかいないためだ。
逮捕は日の出直後に行うことがままある。拘留時間を少しでも長くしたいためだ。そのため、我々、カメラマンは日の出前から所定の位置に脚立を立て、「その時」を待たなければならないのだ。
寒い。氷点下、何度なのだろうか。着込みに着込んでも、たかが知れている。隙間から冷たい空気が忍び込んでくるのだ。おまけに時折、殴りつけるような雪。堪らない。
この日に逮捕されるのは間違いないのだが、いつかはマスコミには分からない。捜査関係者だけが知っている。朝、昼、夜の弁当をとりあえず持参。弁当といってもおにぎり。悠長には飯は食っていられない。おにぎりなら、場所、時間を問わず、簡単に食べることができる。日本のすぐれたファストフードだ。
脚立にコンビにの袋を吊り下げ、その中におにぎりを入れておいた。
某通信社のカメラマンは元ボクサー。寒さしのぎにシャドーボクシングをしはじめた。聞くところによると、いつのオリンピックかは忘れてしまったが、強化選手の一人だったそうだ。
かなり前。入社したてのころ、東京の現場で出会った時は、彼は試合前の減量中のように持参した弁当(といっても野菜のスティック)をパリポリとやっていた。が、さすがにこの日はコンビニ弁当を持参していた。
シャドーボクシングだが、パンチドランカーにでなっているのだろうか。動きが滑稽で、現場の空気をなごませてくれたが、本人はいたって真面目だ。
昼も近づいていた。件の通信社カメラマンは昼飯をと思ったのだろう。弁当を取り出し、箸をつけたところ、奇声をあげた。
近づいて見ると、独り言のように「弁当が凍っている」とつぶやいている。ありゃあ。とするとこっちのお握りもと心配になってくる。確かめてみると、案の定、凍っている。
むむむっと思っていると、しゃりしゃりと食む音が。音の主を確かめると先のカメラマンが食べているではないか。
仕事とはいえ、何で凍った飯を食べなくてはならないのか。飢餓のことを考えると飽食日本のこの現状で贅沢いっていては罰が当たる。
まあ、私も腹が減っていたので、おなじくしゃりっという半分凍った米を食べながら、誰を憎んでいいのやら、寒空をにらみつけた次第であります。
それにしても、寒風吹きさらしの中で耐えた天皇の張り番時代にもこんなことはなかったけど、北国、恐るべしである。
私は背が低い方だ。日本人の平均より下回っている。そのため、脚立は私にとってはごちゃついている現場などで見晴らしが利き、撮影する際に欠かせないアイテムだ。それは特に海外(主に欧米)でさらに必要となってくる。周りのカメラマンが背が高いためだ。
私は海外に脚立を持っていくことを最初ためらった。何しろ、先輩は海外出張の際には脚立を持っていったためしがない、荷物になるなどの消極的な理由からだ。
最初の海外出張では脚立を持っていかなかった。しかし、次からは持っていこうと心に決めた出来事が起こった。
東欧革命がひと段落し、「民主化」を達成した東欧諸国はそれこそ何十年ぶりの自由選挙となった。
ハンガリーでの自由選挙の時、どうしても脚立が必要と思ったことが何度もあった。ごちゃつくだろうし、変なもので脚立があると現場で安心ができるからだ。
しかし、現地で脚立を探し出すことは難しかった。何しろ「革命」を達成したといえ、品物がそれほど揃っていないからだ。
通訳・ガイドを伴って、とにかく脚立探しに出かけた。
ブタペスト(現地ではブタベシュトと発音していた)市内には日曜大工用品店などない。どこをどう回ったかすっかり今となっては忘れてしまったが、大工道具を扱っている所にあった。
一目見て、買うか買わないか正直言って迷ってしまった。日本で普段使っている脚立はアルミ製で、二段か三段。しかも軽い。
ところがようやく見つけた脚立は木製で、ずしりと重い。高さもたたむと最低でも160センチほどある。なんとなくグラグラし、頼りない。
脚立は携帯性が重要だ。重い脚立をエッチラオッチラと運んでいては機敏さに欠けてしまう。
しかし、背に腹は代えられない。日本円で5000円以上したかもしれない。購入したはいいが、車に乗らないため、ロシア製乗用車ラダーの屋根にくくり付けて投宿先のホテルへ向かった。
私が脚立を運んでいるのをドアボーイは見ていた。最初は何やら不思議なものでも見るような顔つきだったが、次には笑っている。
「そんなに脚立って珍しいのかよ」と思っていたら、ボーイは寄ってきてベルボーイと一緒に運ぶのを手伝ってくれた。それくらい携帯性が悪いのだ。
後日、その脚立を持って、投票所に行くとベストポジションには地元のカメラマンがついていた。大勢のマスコミのカメラマンがいる。
「おお。脚立の面目躍如」と正直言って私は思った。
各国のカメラマンは私の一挙手一投足を見守る。カメラマンの列の後方に脚立を立て、登ってカメラ位置を確認するとなぜか、カメラマンたちは「おおーーーー」と歓声を上げた。馬鹿にされているのか、冷やかされているのかは定かではないが、東洋のちっちゃなカメラマンの動きと現場での脚立がよっぽど珍しかったのだろう。
まあ、撮影自体は何てことはなかたっが、地元のカメラマンは、「俺にも登らせてくれ」とどうやら気に入った様子で入れ替わりながら登った。
一旦、日本に帰った際に次に来るときにはちゃんと脚立を持って来ようと肝に命じたのだ。
後日、帰国して再び訪れた東ドイツでの自由選挙取材は、しっかりと日本製のアルミの機動性ある脚立で臨むことができた。
この時はあまり脚立はカメラマンの注目を浴びることはなかったが、その代わりといっては何だが、取材で移動していると、街の職人さんから何度も声をかけられた。
「いい脚立だな。一度、登らせてくれ」
「軽くて、使い勝手のよい脚立だな」
「このような脚立はわが国では手に入れられない」
挙句の果てには「幾らなら売ってくれる?」と値段交渉を始めだす人も出てきた。
確かにハンガリーで使っていた木製脚立では使い勝手は悪い。欲しがるのは良く分かる。
「取材で必要なので」と断っていたが、「帰国するときでいいから売ってくれ」と執拗に迫ってくる人には最後に、根負けしてタダであげてしまった。(もっとも会社の脚立だったので、売って懐に入れるわけにもいかなかった)
一昔前の社会主義国は西側のタバコかGパンが高値で売れたと聞いたことがあった。下品な話で恐縮だが、マルボロ一箱ワン・ファックと言われた時代もあった。
日本に住んでいるとたかが脚立だが、ここでは「されど脚立」(何のこっちゃ?)と思った。
第26話 戦場のもう一つの風景その2〜戦場のメリークリスマス後半
一足先に市庁舎を出て、外の様子を取材した。その時、ようやく冷静になってこの後の取材の足をどう、確保しようかと悩んでしまった。ヒッチハイクでルーマニア内部に入ることができたのはいいが、国外に出て行くにも、さらに取材に行くにも交通手段がなかった。
とその時、先のヒッチハイクできたジャーナリスト二人組にばったり出くわした。相手は「レンズを忘れているぞ」と車まで、案内してくれたので、これ幸いに「次、どこにいくのか」と聞いてみた。
ティミショアラまで行くという。革命の発火点になった「虐殺」の現場となったところだ。ずうずうしく、そこまで乗せてもらえないかとお願いすると、あっさりと了承してくれた。ツキが良いときは、どこまでもよい。
ティミショアラについたころには、すっかり日は落ちていた。大勢の住人は共産主義のシンボルマークをくりぬいた国旗を手に、どこかに向かっていた。ついていくと市庁舎だった。何万という市民が市庁舎を取り囲んでいる。人を分け入りながら市庁舎に近づいていくと、セキュリティーの人間が入り口を封鎖していた。
日本から来たジャーナリストということを伝えると、中に招き入れてくれた。バルコニーに連れて行かれると、眼下に大勢の群集が見えた。写真撮影をしていると、「何か挨拶をしろ」という。私は、こうした革命の現場にすっかり酔っていた。というより風邪もひどくなり熱にうなされているような感じでもあった。
ルーマニア革命、万歳と迂闊にも叫んでしまった。すると群集はそれに応えるように「革命万歳」と叫びあっていた。その声はまるで壁のような重圧感があり、何層にも重なった声が響き渡った。
が、ここまでであった。私は急に眩暈と、吐き気に襲われた。喉はカラカラになっている。
救国戦線という革命側の人間は心配していた。毒を大統領が流したといううわさがあったからだ。私は毒にやられたと思われたらしい。
どこか横になる場所を求めていた。横になっていると、次々に人々がやってきて水をくれたりした。私は起き上がろうと何度もしたが、体がいうことをきかない。
写真を送らなければ。電送機や現像キットはハンガリーのホテルに置きっぱなしだ。困った。何とか戻る手立てを考えなければならなかった。
救国戦線にお願いするしかない。ハンガリーまで行く車を探してくれた。途中で撃ち合いが始まっている様子だった。危険で、ひょっとしたらハンガリーまでたどりつけないかもしれない。それでもいいかと言われたが、選んでいる余地はなかった。ガソリン切れの心配もあると付け加えた。
私は車に乗り込むと、倒れこむように横になった。目が覚めると国境で、そこから先の足も国境警備隊の人が半分脅しのように見つけてくれた。車を三台ほど乗り継いで、ようやくホテルまでたどり着くことができた。
半日ほど、会社から見ると私は行方不明になっていた。カラー現像を浴室で行い、何枚を電送を終えた時には、外はすでに明るくなっていた。
体調の方は万全とはいえなかったが、身支度を整え、カメラ機材や現像セットをパックして鉄路ルーマニア入りを目指した。空路は閉鎖されていたためだ。
ルーマニアの首都ブカレストの北駅に電車はつくと、銃声があちこちから聞こえてきた。とにかくインターコンチネンタルホテルまで行くしかない。そこに特派員が次々と駆けつけているという情報だったからだ。
銃声が止むたびに、腰をかがめてビルからビルへと移動するしかない。荷物を放り出すわけにいかなかった。
初めて目にする本物銃撃戦。初めて耳にする弾の飛び交う音。恐怖で喉はカラカラで、つばを飲み込もうとすると喉に引っかかる。
なんとかとホテルまで辿りつくことができた。途中で片言の日本語をしゃべる男性に出会った。姉がブカレスト大学で日本語を勉強しているという。渡りに船で紹介してもらうと、少したどたどしいところはあったが、問題なく日本語で意思疎通がとれる。
街中を色々案内してもらいことにした。病院に行くと、撃ち合いで亡くなった何十体もの遺体で手術室は埋まっていた。初めて見る光景。銃で頭を撃ちぬかれた顔は変形しており、一昔前にテレビに出ていた「くしゃおじさん」のようだった。あごを自分ではずし、顔がクシャクシャになる顔をするおじさんだ。顔の前面から抜けた弾は後頭部を吹き飛ばし、顔が凹んだようになっている。悲惨を越えて、ふざけた顔でもあった。
夕闇が迫っていた。戦車が官庁街を封鎖し、最後の掃討作戦を展開していた。戦車によじ登り、暗いのでストロボで撮影していた。外国プレスの連中が私をつかんで引きづり下ろしにかかった。「死にたいのか、ばか」となじられた。格好の標的にされるところだったと諌められた。そうなのだ。ここは戦場なのだ。
平和ボケ日本の20代後半の人間は、撃ち合いで身の守り方一つしらないことを嫌というほど、思い知らされた。
夜。散発的な銃声がまだ聞こえた。遠くを見やると、曵光弾が綺麗な放物線を描いていた。緑色っぽい光跡。まるで花火のようだ。
急激に気温が下がってきたと思ったら、雪がちらつきはじめてきた。
「今夜はクリスマスイブ」と同行してくれていたガイドが教えてくれた。
戦場のメリー・クリスマスとなった人生初体験のルーマニア革命でもあった。
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第25話 戦場のもう一つの風景その2〜戦場のメリークリスマス(前半)
東欧革命で唯一、流血となったルーマニア。新聞社に勤めて、初めて社費で海外出張した現場でもある。
国境物語その1で前ぶりを書いたが、結局、革命の当日、日本の新聞社として最初に現地ルポを打電できた。
もう二度と入れないと思ったルーマニア。実は国境で追い返された翌日に革命が始まったのだ。私は懲りずに、国境から流れてくる難民の取材を試みていた。ハンガリー労働党に属していたという通訳・ガイドとドライバーの三人で国境に出向いていた。
当日、私は風邪をこじらせていたので、出発が遅れ、現地時間で正午ちょっと前に国境に着いた。すぐに取材に取り掛からないと、戻って、現像して電送する時間を考えると時間があまりない。ところが、通訳は「ああ、ちょうど昼のニュースの時間です。聞いてからにしましょう」と呑気なことを言い出した。私は半ばあきれてしまった。
ニュースが始まって間もなく、通訳は「ホー」と奇声を上げだした。何事かと思い、たずねると「ちょっと待ってください。ルーマニアで大変なことが起こりました」と言ってからまたニュースに集中し始めた。私はなぜか焦った。「何がおきたのだ」と聞くが、口の前に一本指を立てて、しゃべるのを静止させるだけ。一体、何がおきたというのだ。
私は腹立たしくなってきた。その時間は5分くらいもあっただろうか。ニュースが終わると通訳は日本語を確かめるように、「今、ルーマニアで・・・・・・・」と長ったらしく、説明を始めだした。私は「説明はどうでもいいから、何がおきたのか教えてくれ」というと、「ルーマニアで革命が起きました」というではないか。それも平然とした顔でだ。
何でそれを真っ先に言わないんだろうかとむくれてしまったが、気を取り直して、次に打つべく一手を考えた。
今、国境にいる。ということは、入国競争では私が一番乗りに違いない、と悟った。通訳に「すぐに出発しよう」というと、「私たちは今、パスポートがないから出入国できない」とまたゆったりと話し出した。
じゃあ、どうするか。ヒッチハイクしかないかと思っていると、通訳は機転をきかせてくれてとにかく国境のゲートまで連れていってくれて「ここでおそらく、食料とかを運ぶ車が来るはずなので、頼んで乗せてもらうことにしましょう」と言ってくれた。
30分ほどすると、ピックアップバン車が猛烈な速度で国境ゲートまで近づいてきた。私はすでに出国のスタンプをもらっていた。通訳が話すところによると、別の町にいくので、近隣の大きな町の分岐点までなら乗せてくれるという。
選んでいる時間もない。二つ返事でOKするとルーマニア国境のゲートへ出発。昨日あった国境警備員がいる。「革命万歳」と喜びながら抱きついてくる。すぐに入国許可のスタンプとビザを発給してくれた。昨日の態度とまったく逆だ。おまけにタバコはないかなどとせびってくる。仕方なくタバコを一箱プレゼントした。
何十キロ走っただろうか。道が大きく二つに分かれるところで、「ここまでだから。ここに立っていると車がくるので、つかまえてくれ」と分かれた。
礼を述べて車を見送って間もなくすると、すぐに乗用車がやってきた。私はすかさずヒッチハイカーよろしく、車に止まってもらうようにサインを出した。
運良く二人ずれのジャーナリストと思しき人たちが「ティミショアラ、アラドまで行くから」と便乗を許してくれた。
乗ってすぐに気がついたのだが、パスポートを前の車に忘れていたことに気がついた。運転する人にその旨を話すと「俺たちも急いでいる。仕方がない、君を乗せたところまでだったら戻ってやる」といわれた。追い討ちをかけるように「もう見つからないだろうけど」と。
私も駄目だと思ったが、何と、私を降ろした先1キロほどのところで兵士数人に囲まれて食い物、飲み物を革命騒ぎで物色されていたのだ。
こりゃ運がいいと思い、車のダッシュボードの上を見ると赤い日本のパスポートが置いてあった。
急いで戻りアラドの町に。何万という人々が市役所らしき建物を囲んでいた。トラックはパンを積み、人々に配っている。
私は写真を送る手段を持っていなかったので、とりあえず、一報だけ日本に伝えなければと人を掻き分けながら市役所に向かった。
入り口には警備していた市民の革命側がパスポートチェックをして、「おお日本からか。何かお望みのことがあれば我々に言ってください」と言ってきた。
駄目もと思い、「日本に電話をしたい」というと「わかりました。私の後をついてきてください」と話す。階段を折り、地下室のようなところに連れていかれた。そして一つのドアを開けると、何と電話交換室ではないか。
私が日本の新聞社の電話番号を伝えると、早速、電話をかけてくれた。何度やってもつながらなかったが、機転をきかせてくれたのだろう。イタリア・ローマを経由して電話をしようと試みてくれた。果たして繋がった。嘘だろうと思いながら、電話をとる「朝日新聞社でございます」というではないか。私は切れることを恐れながら、事情を話し、写真部につなげてもらった。
電話に応対してくれた先輩は「おお、今、どこだ。君をずっと探していたんだけど」と非常にのんきなことを聞いてくれるので、「ルーマニアです。ルーマニアに入りました」と事情を説明しているうちに「とにかく一報を送りたいので、外報部の記者を呼んでほしい」と伝えた。
「じゃあ、電話を回すから」というので「切れるおそれがある。切れたら二度とつながらないかもしれないので呼んできて欲しい」と先輩に向かって失礼であったが命令口調となった。
外報部の記者が電話に出て、とりあえず一報を短く伝えた後、「私はすごく興奮しているし、まともに記事がおくれないかもしれないので、私に取材するかっこうでメモしてください」と伝えた。
何分くらい話したのだろうか。次に私を乗せてくれたジャーナリストが待っていたので、電話を切った。
第24話 戦場のもう一つの風景その1〜ポル・ポト派兵士と味の素
1991年10月、パリで紛争三派による和平協定が調印されて、カンボジアで20年以上にわたった長い内戦が終結した。直後から国連はPKO(平和維持活動)に乗り出し、カンボジアの再生国つくりが始まった。
パリ和平からひと月後、自身にとって長期にわたるカンボジアの取材にかかわるようになった。
何回目かのカンボジア取材。ポル・ポト派は和平協定を遵守せず、支配地域を守り武装解除にはまだ、応じていなかった。AMDA(アジア医師連絡協議会)の若い日本人医師の活躍の取材を兼ね、ポル・ポト派がまだ支配する地域に潜入した。日本人医師はかつての紛争三派を分け隔てなく診療していた。時にはポト派地域にまで入っていたというので、同行したのだった。
場所はプノンペン南西部に隣接するコンポン・スプー州。首都から車で2時間もしない地域であった。国連の文民警察官も同行してくれた。
ポト派の兵士は緑色のハンチングハットに似た戦闘帽が特徴で一目「おお、ポト派兵士だ」と分かる。彼らは診療所になかなか訪れることはないため、AMDAの医師は支配地域まで出張診療に出向くのだ。出張診療と書いたが、実態はパトロール中の兵士に出会ったら様子を聞き、診察すると表現した方がより正しい。
多くの兵士はカラシニコフという軽機関銃を肩から下げているが、中には対戦車ロケット砲と予備砲弾を幾つか担いでいる姿も見られる。もっとも怖いのは数本の迫撃砲を蔓で束にして結んで無造作に持ち歩いている少年兵に出会ったときだ。ポンと投げ捨てられたときには、「ああ、爆発するー」と寿命が何年か分縮んだ。
ロケット対戦車砲の筒に色鮮やかなクメール・クロマー(カンボジアの織物)を結びつけて歩いている少年のようなあどけない顔立ちをしたポト派兵士に出会った時のことだ。
なぜか気になって、「中に何が入っているの?」と通訳兼ガイドを通じて聞いてみた。通訳君は肝心な単語がわからず、カンボジア語でミンチェと繰り返した。
大まかに訳すとこういうことだった。
近くに市場があり、ミンチェを買出しに行き、また戻るところです。
「で、そのミンチェとは何なの?」と聞き返すと、困った顔をしながら地面に絵を描き始めたのである。はじめは米粒のようなものを多数書いたので、「ああ、お米ね」と合点すると「違う」という。
さらに絵を描き続け、「シラミに似ていて、色は白」と言われた時には、混乱の極みに達してしまった。
「シラミに似た食べ物??????」
いくら想像力をたくましくしても分からない。あげくの果て、なるほど、カンボジアではシラミは大事なたんぱく質なんだ。長い内戦の食糧難で身に着けた知恵か。なんて失礼なことにまで及んでしまった。
で、次に出てきた言葉が「塩に似ている」だった。
うーん、うーんとうなりながら、その場では結局わからず、プノンペンの取材ベースにしていたパイリン・ホテルの事務所に戻ってから謎が解けた。
通訳くんは、事務所内にあった調味料を持ってきて「これが、ミンチェ」と誇らしげな顔をするのだ。よく見ると、なんと味の素。ジャングルで孤立しながら戦い続けるポト派の楽しみは味の素で味付けされた料理だったのだ。
20年以上の内戦にもかかわらず、味の素は弾薬とともに欠かさず、ジャングルの基地にもたらされていたのだろう。
「腹が減っては戦ができぬ」か。格言を思い起こさせるミンチェ一品でもあった。
初めての国で、しかも主要通貨の使えない場合、空港に着いて入国審査、税関の手続きを終えるとその国の通貨に両替しなければならない。
どこの国でもそうだが、空港での両替は率が悪いが、何も持っていないとタクシーにも乗れない。一日分の両替で済まそうと思うのだが、だいたいは日本を飛び出すときには経理部はありがたく大きな紙幣(100ドル札)を用意していてくれる。
そうなると両替も半端じゃあなくなるのだ。私がよく取材に訪れる国は発展途上国で、国民一人当たりのGDPやGNPは120から300ドルというのが多い。出発までに余裕があるときやスケジュールが前々から決まっているときには前もって小額紙幣を用意していた。
エジプトに行ったのは、今のブッシュの父親の正義の戦争「湾岸戦争」(まあ、イラクの方がこのときは悪かったのだが。中東の石油大国だけど国は小さいクエートに侵攻してしまったのだ)の取材。肝心なクエートには入れないし、サウジアラビアのビザが取れないため、米軍の侵攻とイラクのさらなる暴挙に備えて周辺国を転々としていたのだ。
このとき、エジプトの首都カイロに深夜に着いた。まあ、入国にはビザが必要だったのだが、空港で収入印紙を買って審査官にパスポートを渡すとスタンプを押してくれて入国が認めてくれるという簡単な手続きですんだ。
問題はエジプトの現地通過、ポンドがなかったことだ。こんな夜遅くでは空港の両替もないだろうと思っていたら、なんと国営銀行の窓口が開いている。
おお、ラッキーと思い、仕方なく高額紙幣の100米ドルを交換しようと窓口の男性に手渡した。
相手は偽札かどうかを丹念にしらべることもなく、「オッケー、ミスター。リョウガエ、ダイジョウブ」という風に、声を出しながらこれまたエジプトポンドの高額紙幣を目の前においていってくれた。
最初は?と思って、窓口の男性の口に出す英語を(といっても数字だが)よく聞こうと集中した。
ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ、シックス、セブン、エイト、ナインとまでいって、一山作ってから、さらに、
ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ、シックス、セブン、エイト、ナインと始めた。
おややあ?どこにテン(10)があるのと思ったので、
「アナタ、ジュウ=テン ガ ナイヨ」とこれまた片言の英語で訴えた。
すると窓口の人のよさそうな男性は
「オー、ミスター、ソーリー、ソーリー」と言ってから、目の前の札の山を崩して再び、カウントし始めてくれた。
ところがである。また、ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ、シックス、セブン、エイト、ナインで終わるのだ。
私はニコニコしながら、もう一度、「ドコ、テン ハ? ワタシ、テン ヲ アイシテイル」と言うと、「オー、ミスター。アナタ、アタマ イイネ」と応え、もう一度、カウント開始。
さすがに今度はチャンと10まで数えてくれたのだったけど、さすがに笑えてしまった。まさか、エジプトで古典落語の時そばが聞けるとは思わなかったからだ。
後で、思ったのだけど結構、この手口で観光客はだまされていたんだろうなあ。一応、相手は国営銀行なんだけどね。
初めての入社試験に落ちた後、知り合いの喫茶店のオヤジさんに声をかけられた。
「そうか、野口君、しらないところで写真を勉強していたんだね。知り合いのカメラ雑誌の編集者がバイト君を探していたので、君の事を話しておいたから」と言われた。
あっちゃあ、ありがたいことだけど、写真、知らないんだよね。
兎に角、編集者と編集長との面談の約束の日が来た。編集長はとっても人のよさそうな顔をしていたが、突込みが結構、きつかった。「ふーん、話を聞いていると、本当に写真のことを知らないようだね」と言われてしまった。ああ、これでバイトの採用も無しかと思っていたところ、「ま、ここで勉強してもらってもいいから」と声をかけていただいたのだ。
バイト先は学研のCAPA編集部。
仕事の中身は読者投稿のハガキを原稿用紙にまとめることから始まった。やがて取材まがいなこともやり始め、と同時にカメラの扱い方などを先輩などから教えてもらった。
バイトに馴染んで2ヶ月ほどが過ぎたころ。読者のスペース(通称・読スペ)のコーナーに新企画が持ち上がった。
28ミリレンズ一本で色々な現場に撮影に行き、短いコラム(というほどのものでもないけど)を書くという企画だった。名づけて「28ミリマン」。
初仕事は当時アイドル歌手だった松田聖子の婚約記者会見。オリンパスのカメラに28ミリレンズを付けて、会見場のホテル・ニューオータニに向かった。
初めての現場。ルールなんか知らない。とにかくものすごい数のカメラマンが来ていた。撮影できるスペースがない。チョロチョロト動き回ってはパシャリ。人の間にはいりこんではパシャリ。手を高くかざしてノーファインダー撮影でパシャリ。
ものすごく鬱陶しく見えたのだろう。そのうちカメラの機材で「邪魔するな」と怒声とともにゴツンと頭を殴られてしまった。しかし、怯んでいられないので、また現場に突入して何とか無事に会見取材(というより野次馬の覗き)を終えて、編集部に戻り事の顛末を話すと大うけ。「そうか、殴られたか。仕方がないな」などみんなニコニコしている。
なるほど、28ミリマンは突撃カメラマンたるべきかということで企画は続行されることになった。
巨匠のアンドレ・ケルテスが来日しているときに、CAPAの雑誌を手にしてもらい、28ミリで撮影して編集部に帰ってきたときには、一同は唖然とした。本当に巨匠がCAPAを手にして記念撮影に応じてくれたのかと皆信じられない様子。あげくの果てに「何も知らないということは恐ろしいことだ」と褒められているのか貶されているのかわからない言葉を多数いただいた。
北海道に勤務時代。後輩(当時20代後半)に思い出したように、「そういえば、中高時代にCAPAというカメラ雑誌を読んでいなかった?」と声をかけると「毎月、購読していました」との返事。「では、28ミリマンって覚えている?」と聞き返すと「もちろんですよ。あの、バカバカしいやつですよね」と答えるではないか。
「実は、28ミリマンは僕がやっていたんだよ」と暴露すると「へえ、知らなかった」非常に驚かれた。
ともあれ、こんな具合で楽しいカメラ雑誌での編集仕事をしながら「脚立以前」を過ごしていた。
↑目次に戻る 第23話を読む↑
今なら絶対に許されないことだけど、まだ当時はおおらかな時代だった。
校舎の玄関から勝手に教室に向かおうとしたところ、職員から呼び止められた。
「何か御用ですか?」
「今、朝日新聞の入社試験中ですので、学校の写真を撮らしてもらいます」とずんずんと中に入っていった。
「困ります、それは困ります」という後ろからの声を無視して(というよろ、余裕がなかった)、目に付いた教室の扉を開いて授業風景の写真を撮り始めた。
担任の先生は、はじめキョトンとしていたが、私が「入社試験の最中です」と話すと、どういうわけか何もいわずにそのまま授業を続けたのだった。
本当に間もなく、終了のチャイムがなり、子供たちは屋上に一斉に駆け上がっていく。私も遅れずに後をついていった。屋上にはバスケットゴールがあり、背景にはマリオンの建物がそびえる。バスケに熱中する子供たちと銀座の街並み。うーん、バッチりだ。
後輩に教わったように露出を間違わないことに神経を集中させて、ピントを合わせてパシャパシャと撮りまくった。36枚撮りのフィルムも終わろうとしていたので、時計を見ると集合時間まであと5分ほど。
急いで学校を後にしなくてはならなかった。
帰りがけに、とりあえず呼び止めた職員に「ありがとうございました」と声をかけ、銀座・マリオンに駆けていった。
今なら学校を舞台にした血なまぐさい事件もあり、勝手に入り込むことなんか許されない。(もっとも当時も駄目だったのだろうけど)警察に「不審者進入」と一報され、入社試験どころではないはずだ。もちろん、試験は不合格間違いない。