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今日のつぶやき
| 2005.07.22 夏の高校野球選手権大会、南北海道地区予選の写真を撮っている。明日はいよいよ決勝だ。 今回、撮影していて自分の気持ちの変り具合があった。それは負けて泣いている選手を見た時だった。これまでは、ただ、泣いているだけ、と見過ごしていたのだが、今回、ふと、「自分の高校時代に泣けるほど、打ち込んでいたものはあっただろうか」と考えてしまった。何もない。なぜか、球児たちが愛らしく、うらやましく感じてしまったのだ。 野球の話のついでに、ここで少し砕けた話を。 メンバー交代があり、矢田という名前の選手が告げられた時のことだ。 非常に聞こえつらかったので、隣のNスポーツのカメラマンは「え?わだ?」というので「やだ、だよ。矢田。弓矢の矢に、田んぼの田」と教えると、「ああ、矢田亜希子の矢田ね」というではないか。小生、「え、だれ、それ」と答えると、「えー。知らないんですか。まいったな。今、旬の女優ですよ」とあきれた顔をされた。ジェネレーションギャップというか、今の若いのにはついていけないなあと思いながら、元同僚と朝日新聞に入社した当時の話を始めた。 入社して間もなく、岡田由希子が飛び降り自殺をして、時事通信社からフラッシュニュースのチッカーが流れてきた。当時のデスクらは誰も彼女を知らず、「岡田でなく、岡崎由紀の間違いじゃないか」とそっけない。時間もたち、夜の帳がおり始めた時、バイト連中が騒ぎ出し、やっと事件だと気がつき、記者、カメラマンが現場に向かったことがあった。小生は、それを見て、「新聞社って結構、世間しらずだな」と思った。 その話をすると元同僚のKは「いや、野口さんね。昔、ポケモンのテレビを見ていて、子どもたちが癲癇に似た症状でばたばた倒れたことがあったじゃないですか」と話し始めた。 「いやね、当時のデスクがあわてて、ポケット・モンキーが、街で暴れていて、子どもたちが倒れているらしいぞ、と言われて、現場に向かったことがあったんですよ。ポケット・モンキー?そんなのいたっけなあ、と思いながら向かったのはよかったんんだけど、ラジオのニュースでポケモンというとるやないですか。まったく、驚きましたよ。どこの世界でポケット・モンキーが暴れるんかと。ポケット・モンスターと言うアニメもしらんとよう、新聞記者が勤まると思いましたよ。まったく、新聞社は世間を知らんですよねえ」 ここまで書いたついでに、もう一つ、思い出したことがあった。 名古屋のボウ部の部長を務めた人だったが、スターバックスが日本に進出してきて間もないころ、「ほんまにオートバックスのコーヒーは美味いのか?何で、自動車部品の小売がコーヒーなんか始めたんや」。この時はさすがに唖然としてしまったが、矢田亜希子を知らないと言ったNスポのカメラマンは、同じような気持ちで私を見ていたことなんだろうな。 |
| 2005.0707 今日は七夕らしい。なぜ、らしいかというと、北海道は一部の地域を除いて、七夕は8月7日に行われるからだ。写真工房の前の保育園をのぞいて見ても、笹竹に願い事を書いた短冊すら見えない。そういえば変った風習が残り、子どもたちは各家を「ローソク一本、もらえんか」と声をかけながら訪ね歩き、お菓子をいただく。ほかの地域ではどうなっているのだろうか。私の生まれ育った名古屋にはそのような風習はなかった。 今日の夕刊で、ニューヨークタイムズ紙の女性記者が情報源を秘匿し、大陪審で証言拒否をしたということで収監された記事が載っていた。 取材源の秘匿は記者、というよりも新聞社の生命線だ。一方の週刊タイム誌の記者は、取材源から「明かしても良い」とのメールを受け取り、大陪審で証言に回るため収監は免れたようだ。 私も社会部の記者時代、取材源を絶対にばらさないということで取材に応じてもらったことが何回もあった。即、日本でも法廷侮辱罪(こういった法律が日本にあるのか調べていないが)に問われることはないだろうが、かなり危ない状況だ。 取材源の秘匿に少し関するエピソードがある。以前、社会部で東京劇場というタイトルの続き物を担当したことがある。一本目の「ミネラルウォーター」という見出しの記事で、大手ゼネコンに勤めていた全共闘世代の人物を取り上げたことがある。ウチゲバにあけくれ、スペインに「亡命」。ほとぼりが冷めて、帰国後にゼネコンに入社した。バリバリのサラリーマンで売上を達成できない人間を罵倒したり、女子社員を上半身裸にして正座させたこともあったという。それだけ猛烈だった。 しかし、バブルがはじけると、精神的に崩れた。電車に乗ると下痢をして、通勤がままならなくなった。やむなく住宅展示場に住み着いた、という物語。 その彼は、記事掲載後に飲み屋で会うと、「いやあ、切抜きが机の上に置いてあって、ばれたみたいだけど、とぼけておいたよ」と言われた。 取材源を秘匿するのは状況によっては見破られて、難しい。さらに、札幌の知り合いの飲み屋に通っていたら、「野口、●●を知っているべ。記事にした男だけど」と言われ、びっくりした。これは偶然なのだが、知り合いの知り合いとして、私が足しげく通っていた飲み屋にちょくちょく顔を出していたらしい。そして、私が新聞で取り上げたことを彼は暴露してしまっていたのだが・・・・。 このときは、世界には飲み屋は2件しかないのかと思ったほどだ。 もっとも、政治的に抹殺とか暗殺の危険性とかをはらんだ取材・記事ではなかったのでよかったのだが、取材相手をわからなくするのは、本当に難しい。 しかし、世界には笑い話と昔話で済まされないこともあるので、気をつけなくてはと思っている。 |
| 2005.06.27 英国紙「ガーディアン」の依頼で函館にクジラ食文化の撮影に行った。 ご存知のように英国は捕鯨に関して、強烈な反対国の一つであるために、少々、ためらいがあった。 私はクジラ食が好きで、捕鯨には反対していないからだ。もし、記者が猛烈にクジラ食を野蛮とみなしていたら、どうしようかと思った。 同行したライターは米国籍で日本に17年住んでいたため、日本のクジラ食文化を公平な目で取材して記事を書くと話していたので安心した。 クジラに関しては、私は学校給食で週一回出ていて、何のためらいもなく、食べていたし、それほどまずいとは思っていなかった。学生時代はクジラカツ(鯨カツ)は安くておいしかったので、よく新宿のしょんべん横丁の店に足を運んだ。また、学生時代に教授から尾のみの刺身を食べさせてもらい、日本食の中で、口の中にいれただけで融けてしまうような美味なるものがあるとは知らず、驚いたこともあった。 今でも居酒屋でクジラ刺しやベーコンがあると、つい注文してしまうほど、慣れ親しんでいる。 だからといって、 捕鯨、クジラ食は日本固有の文化的な遺産、と私はそれほど強く思ってはいない。捕鯨は古くから行われたいたし、食文化も捕鯨基地を中心にあったにちがいないが、南氷洋まで出かけてクジラを商業的に大々的に捕るようになったのは、戦後からだ。日本の「伝統捕鯨」は今でいう沿岸小型捕鯨だ。 ミンククジラの個体数が多くなったから捕鯨再開はいい、とは思っていない。遠く南氷洋まで出かけなくても沿岸捕鯨で十分ではないかとさえ思う。 IWC(国際捕鯨委員会)の総会がついこの前、終わったところだが、未だに伝統的に捕鯨をしていたということを主張しているのなら、いつもなぜ、アイヌ民族の捕鯨、クジラ食文化にふれないのか不思議でならない。 一度、伝統的な文化というのなら、先住民族の代表をIWCに送って主張させたらどうだろうか。もっとも、その前にアイヌ民族は「その前に日本は先住民に鮭を自由に捕らせる様にしろ」と訴えるだろう。まさか、日本政府はそうなるのが怖いがために、アイヌのクジラ文化を無視しているのだろうか。 あの反対国のアメリカでさえ、先住民割り当てとしての捕鯨を認めさせているのだから、日本も商業捕鯨再開に向けてネゴシエーションするのだったら、国内の問題にも目を向けてもいいのではないかな、と思う。 |
| 2005.06.24 今日の朝日新聞の朝刊で、海外特派員のコラムについて考えさせられることがあった。日本のメディアではイラクで数ヶ月にわたり人質になっていたフランス人ジャーナリストの名前は掲載されても、イラク人助手の名前が載っていなかったことについての内容だ。フランスではイラク人の助手も顔写真入りでヒーローとして扱われていたが、日本のメディアではまったく助手の存在を忘れさせるような記事内容であることについての特派員の思いが綴られていた。 内戦の終わったカンボジアで思い出すことがある。日本が戦後初めて組織的な軍隊をカンボジアに派兵するPKOのため、自衛隊の調査団を追っかけ取材していた時のことだ。ポルポト派の残党が潜む南西地区を移動していた時、車がぬかるみに脱輪して抜け出せなくなった。周りはおそろしく静かな田園地帯の一角。人っ子ひとりもいない場所だ。 同乗していた記者は運転手、助手を見捨て、別のメディアの車に乗り換えて取材を続けたが、私は助手や運転手のことを考えて、現場に居残った。 大した取材ではなかったのだが、記者はどうしても行くというので、好きにさせたが、私は腸が煮えくり返る怒りを感じた。助手たちの命を守ることはできないかもしれないが、手立ては最大限に考えるべきではないだろうか。私が居残った理由はそれだけだった。助手、運転手は特に雇用契約のない、フリーだったが、長年、つれそって危ない橋をわたってきた仲間でもあった。見捨てるわけにはいかない。見捨てることはジャーナリストの倫理観にも劣る行為の一つとも考えられる。 一人一人ばらばらでいるより、一緒に行動していた方が良いと判断して、助手、運転手、私の三人は数キロほど離れた集落まで歩いて、助けを求めた。 幸いにもトラクターを持っている村人と出会い、無事に車をぬかるみから上げることができた。その間、1時間とちょっとのことだった。幸運にも何事もなく、急いで調査団を追いかけた。 私は当時のプノンペン臨時支局に戻ると、先輩記者を怒鳴りつけた。相手もさすがに後ろめたい気持ちがあっただろう。すぐに助手、運転手に謝りの言葉を述べた。 多くの日本のメディアにとって、助手は単なる捨石のように見ている風潮は強い。尊敬する元ベトナム特派員から話を聞いたことがあった。泥沼のベトナム戦時中に同じ釜の飯を食った助手が亡くなった時、彼は何らかの慰労金を家族に渡そうと会社に掛け合ったが、上層部は「10万円もあれば十分だろう」といい、助手の命を軽く扱う風潮を嘆いていた。 金額の問題ではなく、「人権」「人格」の問題である。私は、恐らくこの話を聞いていたので、自らを戒めることができたのかもしれない。 第三世界の助手の命は、同じように重いいのだ。 |
| 2005.05.30 今日から「セピア色の札幌」シリーズを始めました。 少しずつ撮り貯めた札幌の下町の光景を紹介していきます。 主に撮影するのは現在、私が住んでいる山鼻地区。アイヌ民族にとって悲劇の「開拓」は札幌では山鼻地区で東本願寺を中心に始められた歴史があります。もっともこの東本願寺の青年部では自分たちの誤った過去を見直そうとアイヌ民族との交流を進めていますが。 戦後はこの地区に樺太からの引揚者が多く住み着いた経緯もあります。 5つの商店街が縦横に伸び、札幌の下町情緒が残る場所です。しかし、現在はさびれ、その場所に新しいマンションや施設が建ち並び始めています。 そうした隙間には数多くの「戦前・戦後」の建物が見受けられます。石造りの蔵、土蔵、瓦屋根。 今、記録していかなければ多くは壊されていく運命にあります。その一方で、古い建物を利用した食堂や和菓子屋さんなども見受けられます。個人的にとても面白い町のたたずまいを感じます。 また、この地区は屋号の印も札幌で一番多く残っています。 セピア色で表現することが果たして正しいのか、実は迷っているところです。というのもセピアにすることでイメージとして過去のもの、過ぎ去ったものという考えがつきまとってしまうからです。 とりあえず、セピア色での表現を目指してみます。 |
| 2005.05.13 札幌もようやく春が来た。ソメイヨシノの開花も宣言された。街中のエゾ八重桜はほぼ満開だ。 最近、午前中は図書館に通うことにした。というのも、自宅で購読しているのは朝日新聞だけなため、その他の新聞各紙を読みたいからだ。その裏には新聞の何気ない記事を探るという基本をもう一度、始めようと思ったためでもある。 報道カメラマンになった時、写真の撮りかたをほとんど知らなかったが、生意気な表現かもしれないが、自分は何を撮影すべきかを心得ていた。それを具体化していくために新聞記事をくまなく読んだ。特に、当時は国際面が中心だった。どこかにこれから大きな山場を迎えるニュースは無いか、と短行記事まで追いかけた。 その時、5−6行の短行記事が目に入った。ハンガリーとオーストリア国境で有刺鉄線の取りはすし作業が始まった、という何気ない記事だった。東欧革命が始まる数ヶ月前。私は身震いを覚え、東欧社会主義国で何かが起きようとしていた、と行間から想像した。 まだ、当時は新米記者に毛がはえた程度。私の言うことを誰もまともに聞く人はいなかった。当時、面倒見の良いと思っていた先輩に、この話をした。 中国天安門事件の直後でもあった。先輩は私の話を聞き終えた後、「もう、天安門以上にすごい話は今世紀には無い」と感想を述べた。夏休みを利用して、先輩は中南米の取材を自費で行うと語り、私は東欧に行くと話し合った。 それから私は高校野球の担当となり、野球漬けの毎日を送りながら、東欧社会主義の情報を新聞から得ようとした。どんなべた記事からでも、その情報の裏を読もうとした。 そして夏の高校野球が終わり、帰京し、先輩から「お、野口の言っていた社会主義国の話だけど、企画を出したら、通ったで」と話、そして「でも、行くのは俺や」と続けた。 早い話が企画を先輩に盗まれたのだが、今思えば、私のわきの甘さだったためだ。もっともその先輩のことは今でも許してはいないが・・・・。 ともかく、私が予想したとおり、ドミノ理論のように社会主義国は次々に民主化革命を起こし、ベルリンの壁さえを倒した。 私は途中交代という名目で東欧革命の落穂拾いに出かけ、最後の山場のルーマニア革命には間に合うことができた。 その他にも新聞記事の行間から着想を得て、具体的な写真ルポをいくつもしてきた。 今、私が取材したいことは日本の足元のことだ。もっとも海外の戦争、難民にも興味はあるし、戦場取材は引退はしていないが、それよりも日本を、特に大手マスコミでは取材しても地味な扱いにしかならないような出来事を取材したいと思っている。私は新聞社を辞めた理由の一つにそのことがある。 ここ5年ほど、自分の初心を忘れていた。そのために、新聞記事行間の空想力を生かさねばと思い立ったのだ。 大手マスコミができない、自分しか撮ることしかできない写真のネタが次々に見つかっている。 と、同時に新聞社を辞めてでも撮りつづけたいと思った写真、「失われた日本」の着想がどんどんと高まってきた。 |
| 2005.04.27 札幌もようやく春めいたきた。公園や道端の花壇は今、クロッカスが咲き始めた。芽の伸びる速度は驚異的で、気がつくと花が咲いているという状態。北国の植物は長い冬眠から目覚め、今までの遅れを取り戻すように競い合っているかのようだ。 春眠暁を覚えず、とはこのことだろうか。最近、寝起きがつらく、体がだるく感じられる。本州ではひと月前に味わった気候かもしれないが、北海道は今。ジョギング再開で、なまった体に鞭を入れているが、このだるさはどうにもならない。 |
| 2005.03.31 3.14にも書いたように、ミイラ取りがミイラになるとは、僕のことだったのかと思う今日この頃です。 いよいよ4月の札幌市内の小学校の新学期にあわせて「あけぼの写真工房」を「開校」します。今は、その準備に追われてバタバタとしています。 前のスタジオに置いてあった引き伸ばし機などの移動とか、工房の中は「ここは機材置き場か」と見紛うほどに雑然としています。 事務所としても利用するのですが、このままのペースでいくとかなりまずい状態です。 最近出会った人で面白い人を紹介します。米屋の神(ジン)さんです。ただの米屋でなくて、なんと昨年、日本のマスコミが去った後に数回、クェート経由でイラク・サマワの自衛隊宿営地を訪れている市民ジャーナリストの顔を持ちます。イラクにいくために、札幌の小さなメディアの特派員という肩書きを何の見返りもなく借り受け、本人は「いやあ、いけるだけで幸せですから」。 神さんはまた、来月にイラク訪問を予定しています。というのは一年前に亡くなったジャーナリストの橋田さんの遺志の一つに病院建設があり、その契約を結ばなくてはならないからです。 現地に入れない周辺国の特派員(もちろん日本のメディア)でさえ、一目おかれる存在。 こんな人と身近に出会えるなんて、と刺激をうけつつも楽しんでいます。 廃校利用のまちおこしみたいなものですが、自分の知らない面白い人が一杯いることを改めて再認識してしまいました。 そうそう、来週から、近くの3つの商店街で営む人を中心にしたモノクロ写真ルポを始める予定です。 |
| 2005.3.14 ご無沙汰してしまいました。 今日のつぶやきを再開します。 最近、札幌市内の廃校舎の活用の写真ルポをしました。札幌でマイナーな雑誌ですが、「しゃりばり」4月号のグラフ特集で「今、廃校が面白い」というタイトルで3月18日発売です。 廃校は旧札幌市立曙小学校で、今、市からの補助金を一切受けづに、街づくりの核となるべく幅広い活動拠点に生まれ変わりました。 アート発信、芝居の稽古場、地域の茶の間に給食サービスなどなど。 私自身、ミイラとりがミイラになったかのように、この活動にはまっています。 近く、「あけぼの写真工房」というのを立ち上げ、地域に開放したり、写真ワークショップを開く予定です。 応援のほど、よろしくお願いします。 |
| 2005.2.4 札幌市職員が使う不思議な日本語 昨夜、札幌市役所幹部と飲む機会があった。司馬遼太郎の「街道をいく」にまつわる講演会がきっかけだった。 市職員が使う日本語に前々から疑問に思っていることがあったので、この際と思い質問してみた。その日本語とは「わが社」。なぜ、公務員が「わが社」というのだろうか。普段はこの使い方。一般の私企業の従業員が使うことば。といいつつも「わが社的発言」に私は少々、うんざりもしていたが。「わが社」と聞くと「お前が経営している会社か」と思っていた。 話はさておき、その幹部はこう答えてくれた。市職員が一人称(単)複数を使う場合はほとんどないという。多くても、「私たちは」が限度だそうだ。市というと市を代表したような言い方にもなり、責任をとりかねないことだってあるので避ける。職員が窓口にたつとき、市民は個人として見ずに、あくまでもいくつかある市の担当者でしかすぎない。そのために市職員は一人称の扱いに戸惑いがあるのだという。 あまりにも優等生的な答えで本質がわからなくなりかけた時、幹部の同僚が酔いにまかせてこう言ってきた。「あなたねえ、飲み屋に行って、札幌市役所職員だなんて、あまり知られたくないでしょう。だから『わが社』という言い方でごまかしているだけなんですよ。それだけのこと」 なるほど。でもどうして市職員とばれたくないんでしょうね。赤字財政、平均年収1000万の札幌市職員。官官接待もあり、税金で飲み食いもしましたよね。でも、もっと公僕としての自信を持ってくださいね。まさか、ほかの自治体でも「わが社」的な日本語を使っているのかしら。 |
| 2005.1.27 テレビは誰のためか 最近、クイズ番組などを見ていると、やたらに腹がたってくる。なぜかと言えばクイズの参加者はみな芸能人。ほとんど視聴者が参加できるクイズ番組はない。特に高額商品、景品のあたるものは芸能人だけの専売特許だ。 こういう番組を見なければいいのだが、最近、やたらと「テレビは誰のものだ」と思ってしまう。 アメリカでクイズ番組を見たことがあるが、ミリオネアしかり、視聴者が参加している。100万ドル(日本円換算で約1億500万円)を持ち帰るシーンだってある。 テレビのチャンネルを回すと、みな同じ芸能人だらけ。視聴率を稼ぐ問題もあるだろうが、ほとほとあきれてしまう。 コマーシャルでもほとんどが芸能人。アメリカや欧米ではコマーシャルは別の俳優が行っており、映画、テレビタレントのたぐいは見るこことはない。 芸能人を使わなければ視聴率が稼げないとしたら、よほどテレビ局の怠慢か、コマーシャル料金を払う企業の駄目さ加減なのか、こちら側、視聴者がアホとしかいいようがない。 ニュース番組もしかり。いい加減にしてくれと言いたくなる。 |
| 2005.1.26 札幌は大雪です。 道のわきに除雪された雪山は背丈を越えています。 トップページで新シリーズ、「戦争の傷跡」を始めました。 撮り卸しといきたいところですが、ストック写真でしばらくはつないでいきたいと 思っています。 写真展の方は、無事に終わりました。関係者のみなさま、本当にありがとうございました。 現在、絵葉書サイズの写真を印刷中で、近く、お礼として発送しますので、お待ちください。 このところNHKと朝日新聞が報道の虚偽を巡って争いあっています。 どちらの言い分が正しいのか、正直言ってわかりません。ただ、ここで言えることはNHKの戦争・平和に関する番組編集はかなりおかしくなっているということです。 昨年秋にNHKの夜の番組「命の授業」で国際平和巡礼に参加した11歳の札幌の少年が取り上げられる予定でした。一向に放送されないため、関係者(平和巡礼)に事情を聞いたところ、ボツになったとのことです。 理由を聞くと「反原発や平和への祈りは命に関係ないから」とのことでした。 NHKに事情を聞かなく、ここで一方的な意見だけで書くのは報道人として常識を疑われてしまいそうですが、理由を聞いた時の感想は「そんな馬鹿なことが・・・・」でした。 核の扱いは地球規模の命の問題です。ましてや平和への祈りは命の大切さを訴える行為です。どうして反核、反戦が命と関係がないと言えるのでしょうか? その時に思ったのは、数年前に放送された戦時性暴力を裁く裁判のドキュメントです。NHKが下請けに対して「圧力」をかけ、放送内容を改変した番組です。 そうです。今、報道論争になっているまさにその番組です。 こうした「常識」=「反核・反戦は命の問題に関係ない」がもし、まかり通っているとしたら、大問題です。 このところ私自身も腰が重くなっていたため、話を関係者から半信半疑で聞き流していましたが、メスを入れて解明していこうと思います。 |
| 2005.01.21 寒中お見舞い申し上げます。 久しぶりの「つぶやき」です。 朝日新聞社の西部本社の入っているビル内の「朝日さんさん広場」で写真展が行われています。立ち上げ、準備などのために北九州に行ってきました。もっともある親友との再会と語らい、飲み会が主目的でしたけど・・・。 今回の写真展では、以前に撮影したメラネシア紀行と国際平和巡礼の写真計70点が展示されています。 立地条件の助けもかり、連日、ひょっとしたら100人以上の方にご覧いただいています。会期は約二週間。1千人以上の方の目に触れていただける機会に恵まれています。 掲示板にも書いたのですが、この中でもっとも関心のもたれた写真は、太平洋戦争の戦跡でした。ソロモン諸島ガダルカナル島の戦跡(血染めの浜に設置された日本軍の砲身、米軍の上陸揚陸艦)とブーゲンビル島に眠る山本五十六連合艦隊司令長が搭乗して撃墜された攻撃機の残骸の計三点。 コンセプトからかなり外れていたような気もしたのですが、展示してみると、会期中に行った講演会でも質問が集中しました。また、感想ノートにも書かれていました。 写真展は不特定多数に見ていただく絶好の機会なのですが、期間中の平日の昼間は年配の方が中心になって熱心に見ていただきました。そのせいかもしれません。 と同時に、戦争体験の記憶は生きき続けているのだと感じました。 学生時代、軍歌を放歌高唱する戦友会の会合後の年配を見ては軽蔑していたことがありました。「軍国主義」と目の敵にしていました。 しかし、それは私の浅はかな考え方だったのだと自分が戦場にカメラマンとして過ごすことによって思い直すことができました。青春時代に強烈な体験を共有し、生き残った一兵卒同志の思い出で最大は戦争です。 戦争の悲惨さ、残酷さ、自分の理性を維持できない恐ろしさ、などを一番知っているのは、実は私が昔憎んでいた戦友会の人たちではないかと思っています。 もちろん当時の最前線にいなく安全なところでのうのうと生き延びた上層部の人間は別です。 ドキュメント映画「ゆきゆきて神軍」の奥崎氏の思いは多かれ少なかれ、最前線で戦ったきた兵士にもあるはずです。 今年は戦後60年。まだまだ多くの人の中に戦争(体験)は生きています。年の節目だからではないのですが、今、自分に何ができるのか。何に被写体を向けるべきなのかを、新たな気持ちで臨んでいきたいと思っています。 |
| 2004.11.16 約3週間ちょっとアメリカ、メキシコを訪れた。その間にアメリカ大統領選挙があったのだが、アメリカ国民の選択はブッシュ再選。アメリカにはすでに浄化作用がなくなりつつある。国際協調をないがしろにし、一国単独主義をさらに推し進めていくのだろう。ブッシュは次の選挙を気にすることもないので、ある意味では「やりたい放題」できることになる。閣僚のパウエル国務長官も辞表を提出。これですでにブッシュ政権から再選後に立ち去る意向を示した閣僚は6人に及んだ。身内からも見限られているにもかかわらず、こうした政権を選んだ米国国民は自国にしか結局は関心がなく、世界の片隅の出来事に想像力をなくしているとしか思えない。 イラクのファルージャで連日激しい交戦を続け、街の占拠に意欲をしめし、アラファト亡き後の混迷を深めるパレスチナ問題になんの手も未だに打っていないアメリカ。パウエル辞任後のネオコンに支配された政権は対話ではなく力ずくで北朝鮮、イランに圧力をかけていくのだろうか。ベトナム戦争が泥沼化した時代に、アメリカの「良心」が米西海岸から芽生え始めたように、今回もどこかで産声をあげて欲しいとのぞみたい。 |
| 2004.9.28 突然の知らせだった。足しげく通った飲み屋の主の訃報。昨日の夕方5時ごろ、そのことを知らせる電話が鳴った。一瞬、何が起こったのか飲み込めなかった。「冗談だろ、おい」という気持ちで一杯だった。何を今してよいのか、思考が停止してしまった。 店の中で死んでいたのを昨日の朝、発見された。その日の札幌は清清しく晴れ渡った日だった。洗濯、布団干しにさせるような日光。布団をベランダの手すりにかけ、汚れた衣類などを洗濯機にほうりこんで、スイッチを押してからジョギングに出かけた。本当にそうしたくなるような天気だった。 主は詩人でもあった。今、家の中に、今年5月に彼が行った詩の朗読ライブ録音テープがある。「これを最後のライブにする」と前から公言していた。が、私はそのことを信じていなかった。また、やるに違いないと思っていたからだ。その時期、アメリカに行っていたので、私は彼のライブを聞いていなかった。 死の前夜、私は最後の客として店の暖簾をくぐった。いや、すでに暖簾はしまってあった。午後9時ごろだった。ドアは閉まっていたが、押すと開いた。主は椅子を並べて眠っていたので、帰ろうと思った。ドアが閉まると、もう一度開けて中をのぞくと、主は目を覚まし、「おっ。おっ。何にする?酒か?」とたずねてきた。僕は椅子に座り、「うん、酒」と答えると、大雪の蔵本醸造を黒い二合徳利に入れ、コップといっしょに差し出してくれた。 いつもは炭火焼をしているが、その日は炭はすでに落ちていた。主はフライパンで生ラムを3切れ焼いてくれて、お通しとして出してくれた。ここ2年ばかり、お通しはこのスタイルだった。 店のテレビからNHKスペシャルが流れ始めた。一緒になって見た。出生率の低下問題を世界、日本と紐解くドキュメンタリーだった。冒頭、68億人の地球のロゴがながれた時、主は「68億人も今、いるのか」とつぶやいた。そこで、僕は「中国とインドだけで、その全体の3分の1の人口だよ。地球上の三人に一人はインド人か中国人」と言う。主は「それって反則技だな」と答えた。何気ない会話をしつつ、今日の競馬の結果の反省会のようなこともした。主は夕刊紙の競馬予想欄を取り出し、「な、おれ、このレース、5-4-1の三連単で勝負したんだけど。4-5-1で決まってしまった」と不運を嘆いた。次のレースも4着になった馬を軸にして勝負していたらしく、軸以外に買った3頭の馬が一着、二着、三着に入った。配当は10万円を越えた。あと一歩で幸運を逃してしまった話もしていた。 しばらくすると、眠たそうに、椅子に横になって、たまにチラチラとテレビを見ていた。よくある主の光景。うつろな目をすることもあったが、それは相当に眠たいのだろうと思った。そのうち、うつらうつらし始めた。私は一人で盃を傾けながら、ぼちぼちと酒が無くなったところで、「今日、まだ、店を開けておくの?」と聞いた。「いんや。今日はもう閉める」「じゃあ、いっしょに帰ろうか?」 ほんのちょっとだけ間をおき、「もうしばらくここにいてからにする」というので、「じゃあ、表の看板だけ入れておくね」と声をかけた。「おっ、すまねえ」と主。私は立ち上がりながら、「今度、今日の分払うね。来週は、競馬でお互い、ドカンと大もうけしよう」と話しながら店を後にした。最後の会話となった。振り返ると主は苦笑いのような顔を浮かべていた。 看板をしまいこみ、バスに乗ったのがちょうど午後10時だった。 僕の耳にはまだ、主との会話が残っている。目には主の顔が焼きついている。手には看板の重さが生々しく残っている。 どうして、僕を最後の客に選んでしまったのですか。馬鹿ヤロー。 今日の僕は相当にまいっている。時々、ふとしたことから涙があふれてくる。 そして最後に本当に今までありがとう。 合掌 |
| 2004.9.25 今日、札幌の廃校舎を利用した「学生アート展」STEP2のイベントで、彫刻家の原田ミドーさんとトークショーをおこなってきた。 私自身、学生時代に写真をやっていなかったので、偉そうなことを本来、言えない。しかしショーでどうしても伝えておきたかったことの一つに、作品つくりに「作品以前、シャッター以前」と「汗」は欠かせないということがあった。 作品を見ると、何か図工(図画工作)の授業で作ったものか?と思えてしまうものが多かった。それぞれに綺麗にしあげているのはわかる。見ていて心地は良い。しかしそれだけなのだ。 何かがかけていると思った。それが先に書いたことなのだが、作品を作ろうとした作者の思いが伝わっていないのだ。一日くらいでささっと仕上げたという感じとでもいおうか。 私でもそういった失敗はいくらでもあるのだが、やはり「ま、こんなものか」と思いながら撮影するものはそれなりにしかならない。 せっかくのアート展なのに、不特定多数の目に触れられる機会なのになんてもったいないことなのだろうか。 そもそも「学生アート」というジャンルも逃げの匂いがぷんぷんする。表現に学生も子供も大人も関係ない。もちろん学生時代は未完だと思う。中には完成されたアーティストもいるかもしれない。しかし、もっと自分たちの枠を限定しないで、羽ばたいてもらいたいものだ。 などなど偉そうなことを話してしまったのだが、用は自分にも活をいれていたということなのだ。人に話をすることはその言葉の回収をしなくてはならないから。 いいきっかけを作ってくれたSTEP2の運営委員のみなさん、ありがとう。でも、次回はもっと発展していきましょう。ともにね。 |
| 2004.06.18 テレビ朝日のダイオキシン報道問題は先日、局側が所沢の農家への謝罪と1000万円の和解金を支払うという形で決着がついた。 私は当初から、農家の対応に釈然としない気持ちを抱き続けていた。 なぜ、農家はダイオキシンを撒き散らしている焼却工場やそれを是認している所沢市に対して「安全性」が担保されていないと怒りを向けないのか不思議でならなかった。テレ朝の報道も、高濃度のダイオキシンが検出されたのはお茶の葉からであり、ほうれん草ではなかったという訂正がつく取材のお粗末さもあった。「風評被害」を受けた農家はさぞかし大変だったと思うが、怒りの矛先にはどうも納得ができない。 安全な野菜を口に運ぶことを考えれば、多少はあったにしても野菜からはダイオキシンが検出されているではないか。農家はもっと食の安全のことを考えれば、その周りの環境に対してシビアになるべきではないのかと思う。ベトナム戦争の枯葉剤まではいかないが、この地でダイオキシンが地中深く浸透していることの方が私にとっては重要な問題だ。農家はお茶とほうれん草の違いを云々するよりも、ダイオキシンが降り注いでいる事実に目をむければ、自分たちがいかに安全でない食を提供していたかわかるはずだ。 どこか軸がずれている。議論がうまくすりかえられてしまった印象を受けるのは私だけだろうか。消費者はダイオキシンまみれの野菜を買いたくない、安全な野菜を買いたいというごく当たり前の行動をとっただけである。 農家はテレビ報道がなければ、ダイオキシンを撒き散らす地域での農作業を続けていただろうし、私たち消費者もその事実に気がつかないまま、この地で作られた野菜を口にし続けていたのかもしれない。 私も一時、マスコミという職場に身を置いていた。だからといって同業者をかばう気はさらさらないが、テレビ朝日には毅然とした態度でダイオキシン問題に臨んでもらいたかった。 |
| 2004.05.18 米国・マサチューセッツ州で同性愛者の婚姻が認められ、結婚証明書がカップルに発行されるとともに、従来の婚姻による相続権利など与えられた。ここ、サンフランシスコは同性愛者に寛容な場所で今年2月まで同性愛者の婚姻証明書も出していたが、法的な裏づけは何も無かった。おまけに州から証明書発行のストップがかかり、現在に至っている。州自体は映画俳優で共和党のシュワルツネッカーが知事になるような保守的な「お国柄」。それにもめげず、先日の月曜日にはマサチューセッツの措置に刺激され、市庁舎へデモ行進が行われた。 基本的にアメリカは大嫌いだが、妙なところで大寛容な所があり、おもわずうなずいてしまう。 それはさておき、日本では、国会議員の年金未納問題がしつこく報じられている。この問題が起こった当初から私は「何か変」と思っていたのだ。それは、「未納がそんなに大問題か? もっとマスコミもやるべきことがあるだろう」となぜかいらついている。未納は確かによくないことだが、重箱の隅をつつくような、鬼の首をとったような報道はおかしい。報じている側だって未納期間があるだろう。 新聞記者らは学生時代にきちんと収めていたのだろうか。収めて無くても猶予手続きをしていたのだろうか。何かそんなことを思うと議員の未納問題に腹を立てることができない。そう思っているうちにニュースキャスターの未納問題にも発展するのでは?と思っていたら案の定、その通りになった。うんざりしてしょうがない。 |
| 2004.05.14 久方ぶりのつぶやきになる。 実は今、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー市にいる。同市はアメリカでいち早く障害者の暮らしをよくするために法律を整備し、公共交通に身障者用の乗り降りリフトの取り付けなどの義務を課した場所だ。 また、ベトナム戦争が激化していくさなか、アメリカで初めて組織的な集団行動による反戦運動が行われた場所としても知られる。対岸のサンフランシスコは性的マイノリティーの「聖地」のような存在にもなっている。カストロ地区にはゲイ・レズビアンが仲良く腕を組みながら歩き、時には熱い抱擁もかわされている。ゲイ・レズの解放の象徴とされる大きな虹色の旗が町に掲げられ、ゆっくりとたなびいている。 この西海岸地区はリベラルな街としても知られ、米国のイラク攻撃、イスラエルのパレスチナ侵攻によるジェニンの虐殺の際に大規模な抗議デモが繰り広げられた。 さて、今回。どういった抗議デモに出会えるのか楽しみにしている。 明日はSF市でおかしなマラソン大会が繰り広げらられる。素っ裸で走る人、ムカデ競争のように集団で走る人、日本のメーデーのように政治的風刺のオブジェを担いだり、被ったりしながら走る参加者などなど。私も参加するのだが、国際平和巡礼のTシャツを着て「核の無い未来を目指して」とアピールする予定だ。 それにしても時差ぼけのせいか、昨夜10時近くに寝て、今日は午後の2時半まで寝てしまった。 |
| 2004.05.03 国際平和巡礼の取材から知人カメラマンの結婚式のために一時、帰札。東北も震えるほど寒かったけど、札幌も相変わらず寒い日なあ。本当に5月かよ、とつぶやきたくなる。 |
| 2004.04.30 昨日は久しぶりに晴天。ぽかぽか陽気に誘われて、今年始めて、豊平川の河川敷をジョギングした。あまりにも気持ちの良い日だったので、あれよあれよと15キロ近く走った。どこかの大会でハーフマラソンが行われていたこともあり、刺激されたのかもしれない。 そういえば走り始めたきっかけは、ニューギニア島全横断をするための体力をつけるというのが目的だったなあ。 忘れていた。50歳になるまでにこの企画、是非、実現したいものだ。 |
| 2004.04.28 相変わらず寒い札幌。おまけに雨。春というよりも東京の気温では真冬だ。 今朝の新聞の片隅にほっとする記事が載っていた。「邦人元人質3人応援する会」が発足してホームページも開設したというベタ記事だ。 私もつぶやくだけで、何の力にもなっていないから結局、無責任に元人質を非難している人たちと根本的には何ら変わらないのかもしれない。ええかっこし。こういう時代だからこそ、冷静に動きを見つめる目を養っていきたいものだ。 柏村武昭参議院議員の「反日分子」発言。どうしてベタ記事に毛が生えた程度で終わってしまうのかなあ。こうした発言をしていく議員が次回の選挙に立候補したときに、韓国のように「落選運動」ができて国会に送り込まないようにできたら面白そうだ。 |
| 2004.04.26 昨日、一昨日と札幌は時々小雪の降る寒い冬日だった。 今日は一転して朝から青空が広がり、ぽかぽかする陽気。道南の函館では桜の開花宣言が行われて、いよいよ桜前線も北海道に上陸。 桜は徹底的に明治以降、教育の中で日本、日本人とリンクするイメージとして刷り込まれていったのだが、北国に住んでいると、そういった背景を無視してまでも、私は桜の季節を楽しみにしている。 ああ、それにしても相変わらず「自己責任」論争。タワケ(名古屋弁でアホ、ばかの意)と叫びたくなる。 平和ぼけの日本ならではの論争。というよりも個人を卑下するからこそ、こういう問題がでてくるんだなあ。 先日も、ある人と話をしていて「それではJICAという組織のボランティアか、NHKのジャーナリストが人質になっていたらこうした問題になっていたのか」と問いただしたところ、「いやあ、それはあなた。組織に入っていると言うことは、きちんとしているということ。つまり自己責任を果たしている」とぬかすではないか。何気ない発言だが日本人の根底にある思想、生き方をみたような気がした。 その時、のんだ言葉がある。「大手の組織はフリーを現地に残して避難をしているんだよ」。 |
| 2004.04.24 歳のせいにはあまりしたくはないが、100キロ近くの歩きで相当、体がまいっていたようだ。早朝5時には起きて夜11時には寝るという健康的な生活(もちろん酒抜き)だったのだけれでも・・・。この2日間、寝ていました。特に昨日は一日の内、3分の2以上は睡眠。おかげでまた、元気を取り戻しました。 ここにきて、「自己責任論」の風潮がおかしいいということを、海外の人の声・メディアを頼って、日本のマスコミは報じ始めています。こんなの「自己責任」という言葉が出てきた時点で「可笑しい」と思うのが普通なのに、何を今さらという感じです。 アメリカ人が高遠さん宛に小切手2000ドルを送りました。政府が航空機代を請求していたことに腹を立てたみたです。しかしあくまでも寄附行為です。 何かアメリカ人の底の浅さ(ブッシュを選んだり、戦争行為を許したり)に腹が立つけど、このように単純明快な行動に拍手を送りたくなります。 少なくても日本よりも個人が持っている正義感を覚えます。 もっときな臭い世の中に進んだら、きっと物を言えない環境というのを「私は関与していない」という態度から作り上げていくのだろうなあ。 その時に私は「物が言えるか」。 今、いうことは実はもっとも簡単なのだということを肝に銘じておきたいと思います。 |
| 2004.04.22 平和の巡礼期間中、お酒は厳禁。というよりアボリジニに敬意を払う意味もあって禁じられている。それはどこの先住民も同じように酒で骨抜きにされてきているからだ。現在でもアボリジニの人たちはアルコール問題が絶えない。長く差別されたため、低教育水準、失業、プライドの喪失など悪循環の結果として酒に溺れてしまっているのだ。 おかげで一緒に歩いている期間中、体調はすこぶり良好。 また期間中、新聞、テレビとは無縁の世界だった。巡礼団から抜け出て、新聞を見ると「自己責任」という文字の氾濫。テレビをつけても「自己責任」という言葉が飛び交っていた。一体、何が起こってしまったのだ、と一気に腹立ちモードに。なぜ、拉致された「被害者」を暖かく迎えないのだろうか。まるで彼らは犯罪者のような扱いではないか。国はうまく情報操作をやったな、としか思えない。情報操作された人間の「自己責任」を問いつめる姿は、あまりにも醜い。 せっかくいい気をもらいながらの平和の巡礼取材・撮影だったのだが、思いっきり「バカヤロー」と下品な言葉を吐かずにはいられない。 |
| 2004.04.13 国際平和巡礼で来道した若者たちと語り合って、まだまだ自分の知らない世界があることを知った。 その一つにオーストラリアで英国の原爆実験が行われ、多くのアボリジニが避難勧告もなく被爆して亡くなったり白血病で苦しんでいるということだ。 驚いたことに政府は未だに補償をしていないとも話していた。 いつか現場を訪れてルポをしてみたい。やるべき事がまた一つ増えたようだ。 |